故意の一般理論を排除し確定的認識が必要だとする見解は、歴史的論評について表現の自由に配慮したものと考えらえるが、上記のような保護法益の捉え方からは、通常、犯罪として問題となるのは、死亡と近接した時期に遺族感情を侵害するような行為が中心であり、歴史的な論評などとは性格が異なる。

もし、死亡から時間が経過した後の歴史的論評が問題になった場合にも、「正当な論評」であれば刑法35条によって正当化され得るので、未必の故意で足りると考えても、表現の自由を委縮させることにはならない。

172条の虚偽告訴罪については、故意の一般理論を排除すべき論拠にも相応の合理性が認められるのに、それでも判例は未必の故意で足りるとしていることとの比較からしても、「死者の名誉毀損」について、摘示事実が虚偽であることの確定的認識は不要であり、一般の犯罪と同様に、「未必的故意」で足りると解するべきである。

「虚偽の事実の摘示」についての「未必の故意」とは

以上述べたことを前提に、どのような場合に、「死者の名誉毀損罪」が成立するのかを検討する。

まず、虚偽だと認識した上で公然と故人の名誉を毀損したと自白している場合、或いは、虚偽であることの確定的認識をもって発言したことを行為者が認める言動を行っていた証拠がある場合に犯罪が成立することに問題はない。

前記のとおり、「未必の故意」でも足りるとの前提に立った場合でも、「虚偽の事実の摘示」を行った時点におけるその「未必の故意」が、どのような事実によって認められるかが問題となる。

行為者が「虚偽であるかもしれないが、虚偽であってもいいと考えて発言しました」と自白していれば「未必の故意」が認められることは明らかであるが、問題は、その点について自白をせず、「虚偽だとわかっていたら、そのような摘示はしなかった」と弁解している場合に、どのような事実や証拠によって「未必の故意」が認定されるかである。