まずは確定的認識が必要、という見解があり、『大コンメンタール刑法』などでは「伝統的な通説的見解」とされている。未必の故意で処罰されると、死者に対する歴史的評論が困難になる、という問題意識を背景としていると思われる。
一方で、通常の故意犯と同様、未必の故意で足りるとする見解も少なくない。例えば『条解刑法』では、
「誤って虚偽の事実を摘示して名誉を侵害しても本罪は成立しないが、虚偽性の認識は確定的なものである必要はなく、一般の故意犯におけると同様に未必的な認識でも足りると解される」
と述べられている。
いずれも明確な論拠はあまり示されておらず、対立する見解の間で議論が深まっているとは言い難い。
虚偽告訴罪についての「確定的故意」の要否をめぐる議論との比較230条2項の「故意」に関する議論の参考にすべきと考えられるのが、172条の虚偽告訴罪についての議論である。「死者の名誉毀損」と同様に、未必の故意では足りず確定的故意を要するのかが問題となっており、判例もある。
「未必の故意」で足りるとする説の根拠は、告訴・告発をする場合に、犯罪事実を犯したか否かについてあやふやな状態で、その者が犯人ではないかもしれないと思いつつ告訴・告発をすることを許すならば、悪用の余地が大きく、正当な告訴・告発は刑法35条によって正当化されれば足りる、というものであり、故意の一般論において未必の故意で足りるとされている以上、虚偽告訴罪においてもこれを排除する必然性に欠けるとしている。
これに対し、確定的認識が必要とする見解も、有力に主張されている。
未必の故意で虚偽告訴罪が成立するとなれば、正当な告訴・告発を行う場合でも、真実と確信しなければならなくなるが、犯罪の嫌疑の段階では虚偽であるかもしれないという未必的認識を有するのが一般的なので、未必の故意で処罰されるとすると正当な告訴・告発の不当な制限になる、というのが主たる論拠である。