50床・人に看護師4人で2人が認知症等の対応に駆り出されれば、残りは2人しかいない。ナースステーションに誰も居ないことは日常的、遠くのアラームは個室化も進んでいる現在では、聞こえない。
鼻マスク式呼吸器は簡易型であり、病院が使用することは少ない。患者の疾患からみて、日常利用していた持ち込み品であろうから、アラーム音はスタッフには聞きなれていないものになる。病棟内での使用を前提とした人工呼吸器は大音響のアラームを発するが、家庭内用の機種はうるさいので音量が小さい。このあたりが今回事故の背景と想われる。
問題はこれからである。患者はまだ若く、適切な治療や呼吸器利用でまだ少なからず生存できる可能性はあったかもしれない。ただし自力での生命維持は既に困難になっていた、その意味では延命治療で「生かされていた」とも言える。
これを医療ミスだ賠償せよと訴訟することは容易く、ある程度の賠償が認められるだろう。また当時勤務していた看護師、主治医、病院長さらに開設者の富士吉田市長は、業務上過失致死として刑事告訴され得る。遺族感情としては、処罰と賠償を求めたいことだろう。
しかし産科医療崩壊を引き起こした、福島県の大野病院事件を思い起こすべきだ。「もし、こうしていたら」というifの論理で過失を追求することは可能だが、その結果は医療者の委縮と嫌厭を招き「立ち去り型サボタージュ」を全国的に引き起こした。今も産科医は非常に不足し、各地で産科医療統廃合せざるを得なくなっている。一人の被害者の怒りが、全国民に不利益を与えたことになる。
今の日本では皆保険で気軽に受診でき寿命は延長し、「病院にかかれば治る」と皆当たり前に想っている。しかし現実は必ずいつか人は死ぬ、治らないこともある。
医療には不確実性が必ず存在する。それを忘れて「確実性、絶対治すこと」を要求すれば、医療側は逃げるしかない。最近話題の新人医師が労多くして報われないならと美容外科に行ってしまう「直美」も、その表れとも言える。