攻撃的MFだった財前にポジションはなく、セリエAラツィオへの留学を経て、翌1996年、当時スペインのラ・リーガ1部に所属していたログロニェスにレンタル移籍した。当時の監督は、後に東京V(2017-18)、セレッソ大阪(2019-2020)、清水エスパルス(2021)、ヴィッセル神戸(2022)でも指揮を執ったミゲル・アンヘル・ロティーナ氏だった。
しかし、古傷でもあった膝前十字靭帯の負傷を繰り返し、1シーズンのみで退団。帰国から約1年後にJリーグ初出場を果たすと、今度はクロアチア1部のHNLリエカに移籍するが、ここでもまたケガとの戦いに終始し、ログロニェス時代と同じく公式戦出場0に終わる。彼のサッカー人生はケガとの闘いでもあった。
この2回にわたる欧州挑戦が失敗に終わったことで「早熟」と囁かれ始めた財前だったが、1999年、当時J2のベガルタ仙台に移籍すると、中心選手として活躍。チームを初のJ1昇格に導く。サポーターからの人気も絶大で、2005シーズンのオフに仙台から戦力外通告を受けると、撤回を求めるサポーターの署名が1万人以上集まったという。
その後、J2のモンテディオ山形(2006-09)、タイ・プレミアリーグのムアントン・ユナイテッド(2010)、BECテロ・サーサナ(2011、現ポリス・テロ)でプレーし、2012年1月に引退。北海道室蘭市出身ながら、現在は現役時代に最も輝いた仙台の地でサッカースクールを運営している。
槙野智章(2022年引退)
移籍元:サンフレッチェ広島(2006-2010)
移籍先:ケルン(2010-2012)
生まれ育った古巣を裏切り“アンチ”を生む結果に
サンフレッチェ広島に所属していた2010シーズン、初のベストイレブンに選出されただけではなくDFながら警告も退場もなく、フェアプレー個人賞を受賞したDF槙野智章。しかし、その前年に日本代表に選出されたことで、槙野の心は既に海外に飛んでいた。代表で海外組のMF長谷部誠(当時ヴォルフスブルク)やMF香川真司(当時ボルシア・ドルトムント)と交流しているうちに刺激を受け、ブンデスリーガへの移籍を目指すことを決心する。