現在の肩書は岐阜大学名誉教授となっていますが、2008年当時は京都大学人文科学研究所の客員研究員をしていたのかもしれません。
ただ、その内容たるや坂之上田村麻呂の「出生の秘密」から始まって、谷崎潤一郎の『陰翳礼賛』や第二次世界大戦中から戦後にかけての少年向け冒険マンガにいたるまで、自分の言説に都合のいい箇所だけを切り貼りした典型的なcherry picking(いいとこ取り)に終始しています。
もし私が指導教官だったとしたら「これでは学部学生の卒業論文としても散漫すぎるから、もっと焦点を絞ってきちんと文献考証をして書き直しなさい」とつき返したくなるしろものです。
まず田村麻呂が初代征夷大将軍だったという記述から間違っています。初代は大伴弟麻呂で田村麻呂は副将軍、のちにアイヌ諸部族を糾合した阿弖流為を破った功績を評価されて二代目の征夷大将軍に昇進します。
もちろん8世紀末の征夷大将軍はのちの鎌倉幕府や江戸幕府の将軍のように天皇を儀礼的な君主と奉った上で、日本全土の武士団の統率者であり実質的な最高権力者として君臨する存在ではありませんでした。
さらに「田村麻呂が黒人だった」説の根拠たるや、なんと清水寺に伝わる「秘宝」だった田村麻呂像を特別に許可を得て写真を撮らせてもらったら、次の図表中左側の写真のとおりの顔立ちだったということだけなのです。
たしかに黒人的な風貌と呼べないこともない顔ですが、こういう顔をした東アジア系の人もたくさんいます。
そこでラッセルが持ち出してくるのが「秘宝というからには、何かしら隠さなければいけない事情があったに違いない」という理屈で、その事情とは田村麻呂は黒人だったことにされているわけです。
しかし、日本の仏教史、とくに江戸時代以降の寺社制度史をほんのちょっとでもかじったことがあれば、幕藩体制下の日本の寺は檀家制というかたちで無報酬で戸籍管理を押し付けられていたために、ちょっとでも由来の古そうな仏像、仏画等を片っ端から秘仏、秘宝としてしまいこんで、たまの御開帳で賽銭稼ぎをして何とか存続してきたことを知っています。