あまりにも残酷な皮肉ですが、こうして両親からあくまでも卑屈に従順になることが無事に生きていくための秘訣だと教えこまれた若い国内産奴隷たちは、アフリカから輸入したばかりでまだ英語もろくに通じないし、卑屈に、従順にという生き方も教えこまれていないので調教に手間がかかる輸入奴隷よりはるかに高額で取引されるようになります。
そして中小農園では奴隷の「肥育」のほうが本業で、綿花栽培は副業といった業態に転換する農園も多くなり、アメリカの奴隷主階級全体として、これ以上アフリカ産奴隷を持ちこまれると国内産奴隷に値崩れが起きるから、もう持ちこまないでくれと要求するようになります。
そろそろ自国民のあいだで奴隷制廃止運動が広がり始めたイギリスの貿易商にとっては綿花の大量供給源であり、まだ品質にはいろいろ難のある量産綿糸や綿織物の大口顧客でもあるアメリカの大農園主の要求とあれば渡りに舟で、この要求に応じて奴隷貿易の廃止を宣言したのが1807年のことでした。
次の2段組グラフの上段には、奴隷の資本としての価値が、1770年から1850年までほぼ年間国民総所得の1.5倍で安定していて、南北戦争が終了した1865年以降も皆無になったわけではなかったことが出ています。
南北戦争の終わりとともに奴隷を無償で解放させられたのは南軍に参加した諸州の農園主だけで、北軍側の奴隷主たちは、奴隷を所有しつづけることができていました。
そして、下段には奴隷の名目価格推移が描かれていますが、まだイギリスの貿易商によってアフリカ産の安い奴隷が入っていた1804~06年にかけて300ドルから200ドル強まで大幅に下落しました。
しかし、1807年のイギリスによる奴隷貿易廃止によって安い奴隷の供給が急減するとともに安定的に上昇しはじめ、南北戦争勃発直前の1860年まで景気サイクルが頂点に達するたびに新高値を付けていたことがわかります。