これに海賊ハーロックは男気をかき立てられる。親友の最期を看取り、墓まで作ってくれたこの少年が、それほどの覚悟で赴くのなら、加勢するのが真の海賊ではないか、と。

先ほどの女海賊もそれに同調する。鉄郎が看取った人物は、ハーロックの親友というだけでなく、この女海賊の彼氏。亡き彼のためにも、鉄郎は意地でも守ってやらねばなるまいと。

こうやって二人の海賊の男気が、段取りを踏んで鉄郎の旅の行く末に巧く収斂していく。

主人公の目的がだんだんひとつに絞られていくと共に、ほかの者たちも加勢していく、まさに東映任侠映画のフォーマットに沿って、脚本が練られているのだ。

スペースオペラなんてそんなもの

「どうしてそう都合よく女海賊が999にニアミスするんだ?」とか「加勢する皆がもともと互いに面識ありだなんてありえない」等の不整合の諸々については、「宇宙ものだから」でぶん投げて、鉄郎が旅を続ける動機と目的については、一本筋を通す…

こうやって映画「銀河鉄道999」は、原作まんがの様々な穴や欠陥を埋める…とはいかないけれど背骨はしっかりしたものにブラシュアップされたのだった。

映画版「999」にも影響濃厚な、当時の宇宙冒険ものの一大画期作「スター・ウォーズ」(1977年)からして、主人公ルークが宇宙英雄の道を歩みだすきっかけも設定も、非常に緩いものだった。

もし、あのロボットR2-D2が砂漠の小人族に捕らえられることなく、予定通り老賢者オビ=ワンのもとにたどり着いていたら、ルーク抜きであの冒険物語が繰り広げられていたことになる。

彼が銀河ヒーローの道を歩むよう、あらかじめ作者によっておぜん立てされているのだ。こういうのを「神の手」という。

この手をいかに巧く、見えないようにするかが冒険活劇の基本だと喝破したのは宮崎駿だった。「カリオストロの城」(奇しくも『999』と同年、五か月遅れで公開)は「スター・ウォーズ」のこうした欠陥への、彼からの創造的批評でもあった。