この虚無とも無菌テントともつかない、真っ白なコンコース。その生まれは、日本でいう明治時代の前半。

ドイツの数学界での、ある論争を始まりとしている。

大御所クロネッカーいわく「整数は神の作ったものだが、他は人間の作ったものである」。

詳細は省くが、要するに数えることこそが、数学の基本であり、神がヒトに授けたもうた英知であるとする数学観である。

これに疑問符を付けたのがカントールという、当時の前衛数学者だった。

「数える」は、「時間の進み」という考え方を(暗黙に)数学世界に持ち込んでしまう。

それは人間の体感に基づくものであり、そういう即物的な考え方を、数学はむしろ排除していくべきではないか

体感や直観から、数学は独立を果たしていくべきだと、私は思う、と。

クロネッカーとカントール。これはどちらが正しい/間違いという論争ではない。どちらのほうが、今後の数学研究を、より広く、深く、豊かなものにしてくれるかの争いであった。

その観点でいえば、勝者はカントールであった。

無限、無限の無限、無限の無限の無限…

「時間の進み」を数学から排除し、代わりに∞(無限)を数の外縁に置く…

このアバンギャルドな方向性は、やがて「集合と写像」という、極めて抽象的な数学言語に結実していった。

「I teach English.」とあったら「I am an English teacher.」に訳さないといけない、冷徹な言語に。

スヌーピーの小学校にて

実は1960年代半ば、アメリカでそうした数学言語を、小学一年生から教えていこうという運動があった。いわゆる「ニュー・マス」(New Mass、新数学)。

どうなったか。スヌーピーのまんがでも揶揄されるような有様となった。

「こんなの2たす2もわかんなーい!」

(1965年10月5日付配信、チャールズ・シュルツ作「PEANUTS」より)

この波は、日本の小学校も呑みこんでいった。そして算数嫌いの子どもを大量に生み出すこととなった。