それは微分・積分の最終ラウンドだ。

「小学校のときの級友と、高校卒業の前に再会を果たしたようだった」「ああきれいに輪が閉じた気がした」と、その時のことを振り返るひとは、受験数学の秀才たちである。

数学秀才たちは、こうして挫折していく

だがこうした秀才たちは、大学に進むと、やがて衝撃と失望を味わっていく。

ホールケーキを無限に細く切っていくという、素朴だが分かりやすい説明が、そこでは消えていく。

そればかりではない。

数を数えることさえ、消えていく。

これが数(かず)であると、教えこまれる。

さんすうの基本である「ひとつひとつかぞえていく」は、消え失せるのだ。

数学秀才たちは、このとき思い知る。

俺は、あたしは、神の仕掛けた罠にはまったのだ、と。

映画「2001」のなかで、ヒトが、無限光の濁流に呑みこまれた末に、すべてが真っ白な部屋に、ひとり立ち尽くすように。

干からびた老人となって…

数学はBe動詞文である

どうして数学秀才たちがこんな目に遭ってしまうのかというと、厳密な話はここでは避けて、こんな風に説明しておこう。

私たちが小・中・高にかけて学んでいく数学と、大学以降の本格数学は、喩えるならばこんな英文の違いである。

① I teach English. (私は英語を教えている) ② I am an English teacher. (私は英語の教師である)

どちらも同じことを述べているわけだが、①は「teach」(教える)という動詞を使っているのに対し、②は「teacher」(教えるひと)つまり名詞を使っている。

動詞とは何か。そこに時の矢が伴うことばだ。

「教える」「持つ」など、そこには時間の経過が伴っている。

私たちが小・中・高にかけて学んでいく数学は、いってみれば動詞に頼った数文(英文ならぬ数文)である。

しかし大学以降は違う。

そこに広がるのは、動詞が禁じられた世界だ。「数学を学んでいる」と口にしても通じない、「数学学徒である」と言いかえると、ようやく音声センサーが作動してドアが開く、そんな無菌コンコースが連なって広がっていく。

「時間」が排除されたコンコース