鳥羽天皇は、5歳で即位し(1107年)、21歳で退位し(1123年)、その6年後に白河院が77歳で死んだので院政を開始し(1129年)、54歳まで最高権力者だった(1156年崩御)。白河院は女も男も情交の相手としまくり、平清盛や一年年下の崇徳天皇も院の子ではないかと噂された。

つまり、鳥羽天皇は数えで15歳ときに祖父のお手つきの女性と結婚させられ、そのあとも祖父と妻との関係は続いて、17歳で身に憶えのない子の父親にさせられ、21歳で5歳のその子に皇位を譲らせられたのだから悔しさは格別だった。だが、その6年後には白河院が崩御したので、鳥羽院の院政が始まり、今度は崇徳天皇が惨めな思いをすることになる。

やはり鳥羽天皇の子である近衛天皇を生んだのは、白河院の近臣藤原長実(四条家の祖)の娘で美貌で知られた美福門院だ。母が道長の曾孫(源顕房と尊子の孫)である。大河ドラマ「平清盛」では、待賢門院を壇れいが、美福門院を松雪泰子が演じてドラマ前半のヒロイン対決になっていた。

結局、鳥羽天皇の妃としては、待賢門院のほか、美福門院、それに、藤原忠実の娘の高陽院が三九歳で入内し、これも皇后となって三后が立后したのである。いずれも道長の子孫だ。

崇徳天皇は、鳥羽院の強い意向によって、自身の異母弟で美福門院を母とするのちの近衛天皇(在位1141~55年)を皇太弟に立てさせられ、崇徳天皇が24歳のとき20歳も年下の近衛天皇に譲位させられた。

近衛天皇のあとは、鳥羽院の意向で崇徳院の同母弟である後白河天皇(在位1155~58年)が即位したが、崇徳院は実子の重仁親王への譲位を狙い、これに藤原摂関家における、道長から五世の孫のうち、忠通が後白河に、頼長が崇徳について起きたのが武士の世の中の序曲となった保元の乱である。

つまり、皇室も摂関家も、男も女も道長の子孫たち同士が入り乱れて権力闘争を繰り広げたのである。