一条天皇と彰子中宮の第二子である後朱雀天皇の東宮時代の正妻となったのは、道長の六女である藤原嬉子(道長と倫子の第六子)だが、出産直後に死んで、後冷泉天皇は紫式部の娘である賢子を乳母として育った。

そこで、三条天皇と道長次女の妍子(道長と倫子の第六子。贅沢好みの平安ギャル)の皇女禎子内親王(陽明門院)が皇后となり、生まれたのが、後三条天皇(在位1068~72年)であって、これが東宮になったものの、藤原頼通は一人娘の寛子を後冷泉天皇の皇后にして,皇子が生まれたら廃太子にすると予想されていた。

頼通は歴代の東宮が伝領する「壷切の剣」(醍醐天皇から秋篠宮殿下まで皇嗣ののシンボルとして受け継がれている)も渡さなかったし、いずれ廃太子になると皆が思ったか、皇太子妃候補にさえことかき、東宮の太夫だった藤原能信(道長と源明子の三男)が自分の養女茂子(閑院流の藤原公成娘)を娶せただけだった。

ところが、後冷泉天皇と寛子に皇子は生まれず、藤原氏の母でなく故三条天皇を外祖父とする後三条天皇が即位することになって荘園の整理などで摂関家と対立姿勢を取った。

茂子の子であったのが白河天皇(在位1072~86年)であるが、中宮であった藤原賢子を深く愛し、重病となっても御所からの退出を許さず、遺骸を抱いて号泣した。天皇が穢れにふれてはならないと注意されても「例はこれよりこそ始まらめ」と聞かなかった。

白河院御影、白河法皇像(成菩提院御影)Wikipediaより

賢子は藤原道長の孫でもある村上源氏の源顕房(村上源氏の源師房と道長の娘尊子の子)の娘で、頼通の子である藤原師実の養女である。

治世の初期に藤原頼通、弟の教通、上東門院(一条天皇中宮彰子)などが死去した。師実が関白となったが力不足だった。政治家として修羅場をくぐり抜けてきた道長以前の摂関家とは違い、いまでいえば二世議員のようなものになっていた。

皇太子には、父である後三条天皇により異母弟の実仁親王(道長の横車で東宮を辞退した小一条院の曾孫)が充てられ、その次には同母の輔仁親王が予定されていた。だが、実仁親王が十五歳で死去したのを機に、白河天皇は、最愛の妃・藤原賢子の忘れ形見である堀河天皇(在位1086~1107年)を皇太子とし、その日のうちに譲位した。