堀河天皇は後三条天皇の皇女である叔母で、十九歳も年上の篤子内親王(陽明門院が養育)を「子供の時からすばらしい女性だと憧れ、この人を妻としたいと思っていた」として中宮にした。仲は睦まじかったというが、子供を得ることは期待できず、白河院の生母茂子の姪である藤原(閑院流)苡子が鳥羽天皇(在位1107~23年)を得た。
堀河天皇は、道長の曾孫で源師房の娘を母とする関白・藤原師通との関係も良く協力し合ったが、白河院の力に圧倒された。
摂関家の当主は藤原師通の後継者である忠実(母は道長と源明子の子である頼宗の孫)だったが、白河院を押さえられなかった。
この時代を知るために重宝される「中右記」(藤原宗忠の日記)には、「意に任せ法にかかわらずして叙位・除目を行い給う。威四海に満ち天下帰服す」とある。天皇の下での朝廷における意志決定は、大臣、大納言、中納言、参議からなる公卿会議(陣定)でされていたが、院の御所での議定は院の好きなメンバーで構成したし、院別当の源俊明(醍醐源氏・大納言)、「夜の関白」といわれた藤原顕隆(権中納言。紫式部の夫・宣孝の子孫で葉室家)、学者の大江匡房(権中納言)といった中堅官僚が権力を握った。学識のある官僚の抜擢ということでは評価すべきだが、すべてが気ままに決定された。
受領には近臣ばかりが任命され、一家族にいくつもの国が与えられた。競って院やその周辺の女性たちの意を迎えようと、多くの寺院が建てられ仏像が彫られ仏画が描かれた。
さらに、白河院は自分の孫の鳥羽天皇に待賢門院を中宮として押しつけた。彼女は崇徳天皇や後白河天皇など四人の親王を産んだ。崇徳天皇が白河院の子であることは、『待賢門院璋子の生涯―椒庭秘抄』(角田文衛・朝日新聞社)でも日記などの分析から間違いないこととして立証されて、ほとんど疑いようがないこととされている。
白河院がお手つきらしき祇園女御の妹ともいわれる女性を、御所警護の北面の武士として頭角をあらわしていた平忠盛に下げ渡し、平清盛が生まれたのも崇徳天皇誕生の前年で、白河院の子でないかということは、鎌倉時代には広く信じられていた。