僕の意見としては、「全力で省人化技術を磨き続ける国民的合意を作り必死にやる」上で、それでも足りない部分は自然と外国人に頼らざるを得なくなるだろうから、そこはちゃんと日本語覚えてもらって日本社会に馴染んでもらう仕組みが必要だよね、というぐらいの感じでしょうか。
なんにせよこの本読んでて思ったのは、2000年代〜アベノミクス時代の日本というのは、「必死にみんなに職を配る」ことをあらゆる点で優先していて、それが色々と「非合理な部分も温存」していた部分はあったといえるのかもとおもいましたね。
これからは「少ない人員で必要な供給をやりきる」ためには、もう必死になって「効率化」をしていかないといけない状況に追い込まれるのは、「日本的苦労の押し売り」みたいなのが大嫌いだった人にとっては良い風潮になりえるのかも。
あと、「脱成長」云々みたいなことを言っていた人が「本当は目指したかった形」も実はこういうところにあるんじゃないかという感じもしますね。
「無理やり数字を作るためのかさ増し」を政府がやるんじゃなくて、実際に切実なニーズがあるところに適宜供給が自由自在にいきわたるようなメカニズムを信頼して・・・みたいな流れになっていくことは、やたら国家主導経済にアメリカも中国もなっていく流れに逆行する形で「本来的な」ゴールを目指せる流れになりえるのかもと思いました。
今年のノーベル経済学賞研究を引用したこの記事で書いたように「国家が無理やり握りしめる経済」を徐々に手放していかないと、中国経済の不調の二の舞いみたいになっちゃいますからね。
そこにむしろ「経済学の教科書通り」の形が見えてくるのはいいことなのかもしれません。
5. 「雨が降ったら傘をさせばええんですな」「無駄に需要を作らない、供給を徹底に効率化する」という「今後の世界」を考えると、”経営の神様”松下幸之助が言ったという「雨が降ったら傘をさせばええんですな」という精神が大事になってくるんですよね。