坂井は県内を6ブロックに分けて県民局を置き、地域対策を強化した。また、同和行政を部落解放同盟に一本化するかどうかで同盟と対立し、県庁で座り込みが続く事件があったが、断固、拒否を貫いた。剛直にして繊細な人物であった。
また、坂井の在任中の1973年、神戸沖への空港建設に神戸市の宮崎辰雄市長が反対の立場を取って選出され、このことが、その後の関西に置ける空港問題が混迷する原因となった。坂井はこの宮崎の意向に同意しなかったのだが、国際空港は大阪府南部に建設されることとなった。国際都市としての位置づけこそが都市の生命である神戸にとって、返す返すも残念な自己保身を優先させた市長候補の決定だった。
西播磨テクノポリス開発構想の推進後継知事をめぐっては、鷲尾弘志県議も意欲を示したが、副知事の貝原俊民(1986~2001)に落ち着いた。佐賀県武雄市の生まれ。東京大学法学部卒業後に自治省へ入り、兵庫県地方課長として出向してそのまま残り、農林部長、総務部長などを経て副知事となる。1997年には阪神淡路大震災に遭う。震災からの復興が一段落付いたとして、4期目の任期を1年残して辞任した。
在任中、「中央集権制限法」を提案するなど、貝原氏は地方分権推進の論客として知られた。また、西播磨テクノポリス開発構想なども推進した。
だが、大震災にあたっては、知事公舎にあって事態の深刻さの認識が遅れ、自衛隊への災害派遣要請など初動がひどく遅れて非難を浴びた。その後も、誠心誠意の仕事ぶりではあったが、地方自治の原則論などにこだわり、国家的な取り組みの引き出しに十分な成果を上げることができなかった。
「県土の一木一草まで責任を持つ」という金井知事の言葉を引き合いに出し、人間的にも、政策面でも、好ましく評価されていたのだが、後藤新平らによる関東京大学震災からの復興の成功が帝都東京としての発展に大きく寄与したのに比べたりするとき、物足りなさを感じるというのも確かだろう。