財政は窮乏を極め、財政再建団体になった。このとき、県立の医科大学、農大を国立に移管したり、知事公舎の売却、社会福祉の充実などにつとめた。だが、国体は徹底した節減をした上で開催され、復興のシンボル的行事として県民の意識を高揚するのに絶大な効果があった。
『華麗なる一族』の時代後任となった金井元彦(1947~54)は姫路生まれ。東京大学法学部から内務省入りし、青森県知事などをつとめる。そののち一時、民間企業にあったが、阪本の就任の翌年に副知事に就任して、文人肌の阪本を実務面からよく支えた。阪神間の臨海部での工業立地を抑制し、内陸や播磨地域での工業開発を促進した。
金井は自民党の推薦で出馬し、革新系からは広報室長の今井正剛が出馬した。阪本は部下同士の戦いで一方に与するわけにはいかないと介入しなかったのが幸いして、金井が62万票を獲得して35万票の今井を下した。
阪神間の臨海部での工業立地を抑制し、内陸や播磨での工業開発を促進した。なお、『華麗なる一族』はこの金井知事時代の神戸を舞台にしている。
華麗なる一族(上)
関西に置ける空港問題が混迷する原因金井は再選直後に副知事の坂井時忠(1970~86)と教育長の一谷を呼び、まず、一谷に後継としての出馬を要請したが、一谷は「坂井さんに」と儀礼的に遠慮したところ、その場で、坂井が受諾したので路線が敷かれたという。
坂井は佐賀県の生まれで東京大学法学部から内務省入り。若い頃に兵庫県で農政課長、地方課長をつとめたこともあるが、さらに、兵庫県警察本部長、警察庁官房長、近畿管区警察局長、阪神高速道路公団理事を経て副知事となる。
最初の選挙戦では86万票で、社会党元代議士の伊賀定盛が60万票と善戦したが、そののちは、ダブルスコア以上の差を続けた。そんななかで、2期目には革新系と距離を取り始めていた公明党が独自候補を立て、3期目には坂井支持に回ったのが象徴的だった。ただし、この時には事務所内に神棚を置くことに反対して一波乱があった。3選はせずという不文律を破って坂井が多選された背景には、警察庁出身の山口廣司副知事が急死したということもあった。