任期中の最大の事件は朝鮮学校事件である。
戦後、公立校の一隅を充てて朝鮮人子弟のための学校が設けられていたが、GHQは在日朝鮮人の本国帰還も一段落したとして、残留する者については原則として日本人と同じクラスで、という指令を出した。知事がそれを受けて閉鎖命令を出したのだが、これに反発した関係者が岸田知事らを監禁した。身の危険を感じた岸田は閉鎖命令を取り消したが、GHQはそれを撤回させ大規模な検挙したのである。
このときは、まだ、朝鮮戦争の前だが、その後もソウルは在日同胞の教育などに冷淡で、一方、平壌が熱心にバックアップするという構図が続いたことは、本来は慶尚南道など半島南部出身者が在日の人たちのほとんどであるのに半数近くが北の国籍を持つというねじれた状況をもたらした根本原因である。
県政腐敗を糾弾され辞職勧告再選時には県経済部長だった徳崎香を35万票という大差で下した岸田だが、2期目の終わりに最初の当選以来、県庁内で副知事と出納長の派閥争いがあり、知事が吉川覚副知事に辞職を迫ったところ、反対に県政腐敗を糾弾され辞職勧告書を突きつけられる騒ぎになった。
岸田はいったん辞職して禊ぎを受けようと画策したが、批判は強かった。元内務大臣の湯沢三千男をかつぐことで岸田を降ろそうとしたが岸田は受けず、岸田と吉川の両方が立候補する泥仕合になった。
そのなかで漁夫の利を占めたのが革新陣営の阪本勝(1954~62)で、42万票という大差で当選し財政課長だった一谷定之丞は、政府の介入を渋り金融機関からの借り入れを主張する阪本に、「財閥、資本家から借りるより国民、県民から借りた方がいでしょう」と説得したという。
阪本は東京大学経済学部卒。教師、記者、文筆業の傍ら労農党の県議をつとめ、1942年には代議士、戦後は尼崎市長となった。「県民と燕は自由に来たれ」と登庁第一声を発し、知事室に市民が訪れるように求めた。