兵庫県知事選挙は劇的なドラマとなったが、その背景には、兵庫県では、1963年に金井元彦知事が当選してから、斎藤知事の出現まで4代60年にも渡って、内務官僚出身の副知事が知事に昇格するという異常な状況にあったことがある。
今回の選挙については、次回に論じるとして、今回は、かつて私が書いた、『歴代知事三〇〇人~日本全国「現代の殿さま」列伝~』(光文社新書・電子版で入手可能)という本の1部を編集して、公選知事の最初から斎藤知事の前任の井戸知事の出現までを紹介したい。
名知事として敬愛される阪本勝「水が澱めばボウフラがわく。行政の良識と妙諦は常に清く、激しい流れのなかに身をおくことである」、「種子をまいて去る人もある、花の咲きにおう宴を楽しむ人もある、またその結実を祝う果報者もいる。みな、それぞれのめぐり合わせだ。自分のまいた種子を実るのを見たいのが人情だが」という名言を残して3選に出馬しない理由としたのが、兵庫県の名知事としていまだ敬愛されている阪本勝である。
不偏不党とヒューマニズムを掲げ、カリスマ性あふれる文人知事として絶大な人気を誇った阪本は、当時、社会党の党首だった地元の河上丈太郎の求めで東京都知事選に出馬したが、神戸の知事がどうして東京にという違和感が先行し、票を伸ばすことができなかったし、兵庫県民からも、同じ知事をするならもう少し兵庫で続ければいいのに、と受け止められた。
GHQと朝鮮学校事件戦後の難しい時期にあって、日本最大の貿易港だった神戸をお膝元とする兵庫県の復興に当たった岸田幸雄(1947~54)は京都府生まれで、京都大学法学部卒。高等文官試験には合格していたが大阪商船に入社し、ILO使用者代表団に加わって欧州各国をまわった。戦争中は電力畑で活躍し、戦後、官選の兵庫県知事となった。知事選立候補のためにいったん辞任し、64万票を獲得して33万票の社会党の松沢兼人を破り当選した。