要するに、後期の縄文人は、過去の経験の蓄積を基に、最も暑い季節が立秋であり、最も寒い季節が立春であることを帰納的に把握していて、日没方位および日出方位でその時期を特定するよう環状列石を配置したものと考えられます。縄文人の文化レベルは、現代人が考えていたものよりも数段高かったのです。
大湯環状列石に見られる立秋・立春を特別な日とする原始的な太陽信仰は、その後の古代日本にも引き継がれています。図10は西暦200年、纏向の祭祀場(辻地区土坑)から眺望する立春の太陽です。この日の太陽は神の山である三輪山(=御・和・山:大王の和国の山)から姿を現します。
この地点は、意図的に設計された太陽信仰の祭祀場であったと考えるのが蓋然的です。このような時空が偶然の産物とは考えにくいからです。
当時の人たちはこの場所から毎年2回(立冬と立春)このような光景を遥拝できることを知っていたはずですが、残念なことに文字がなかったため、後世の人にこの確かな文化を伝えることはできなかったのです。
遠い昔に日本人が忘れてしまった古代の文化、今後も解き明かしていきたいと思います。