今日では映画『善き人のためのソナタ』(ドイツ。2006年)などで知られますが、さすがに政治犯の即時処刑は控えられるようになった冷戦の後半、東側諸国では秘密警察が盗聴などで個人のプライバシーを掌握することで、「いつでも処罰できるぞ」という恐怖感を通じた国民の統治を行ないました。結果として蓄積された、人びとの日常生活を記録する膨大なデータを、西尾氏は「これも社会や権力が、『情報化』した事例とは呼べないか」と問うたわけです。
奇妙な話ですが、2000年代の「ブログ」ブーム以来、私たちのネット空間は「東欧化」が進んでいます。誰かに脅されるまでもなく、みずから進んで私生活の仔細を文章に綴り、公の場で報告する。2010年代にSNSが定着するとその傾向は加速し、従来なら内面に秘めていたはずの政治信条、宗教的な信仰、セクシュアリティなどもプロフィールに記して「可視化」するようになりました(詳しくは、拙著『過剰可視化社会』PHP新書)。
そこに「検索」が加わることで、私たちはある意味で全員が秘密警察であり、そして同時に監視対象でもあるというややこしい状態に置かれています。いまや誰もが、狙いをつけたターゲットの私生活や内面を監視し、旧東欧の思想警察のように取り締まることができる。しかしそれは、自分自身も発言履歴を他人に検索され、いつ糾弾されるかわからない不安と表裏一体である。
『Voice』2024年4月号、74頁 (数値を算用数字に改定)
2020年以降のコロナ~ウクライナの流れの中で、せっせと検索しては「コイツは人民の敵!」「社会的に抹殺しよう!」と、率先して監視権力の片棒を担いだ大学教員のみなさーん、自分のやったことを理解したかな? わからないなら、わかるまで冷戦下の東側のように「再教育」するけど(笑)。