横浜に生まれた森岡氏だが、2つ年上の兄が東京ヴェルディのジュニアユースに所属していたものの、本人は将来を嘱望されるほどの選手ではなかったため、「家から近いから」という理由で難関私立の桐蔭学園中学を受験し合格する。そのまま桐蔭学園高校に進むと、サッカー部監督で後に東京Vで指揮を執る李国秀氏と出会い、MFからDFにコンバートされ実力を開花させていく。
場を教室に移すと、同じクラスには、中学のポニーリーグ「千葉ジャガーズ」時代にはエースで4番としてチームを全国大会2連覇を果たし、鳴り物入りで同校にスポーツ推薦で入学してきた高橋由伸(読売ジャイアンツ1998-2015、監督2015-2018)がいた。いきなり1年夏に甲子園に出場し、2年夏にも甲子園の土を踏んだ大スターと同じクラスで、席も前後。「よくベランダで話し合う仲だった」(森岡談)という。
高橋氏はその後、慶大入学後1年生からレギュラーとなり、1997年ドラフト1位で巨人(読売ジャイアンツ)入りして、ルーキーイヤーから活躍。巨人の第66代4番打者としても名を残した。2015年オフに現役を引退して即、第18代監督に就任。常に陽の当たる道を進んできた。
それに対して森岡氏も、1年夏にレギュラーポジションを得て、全国高校サッカーにも出場。ユース世代の日本代表にも選出された。
しかし、1994年に鹿島アントラーズに入団するも、公式戦出場は1試合のみ。翌1995年夏には清水へレンタル移籍する(後に完全移籍に移行)。翌1996年に監督として清水にやってきたアルゼンチン代表のレジェンド、オズワルド・アルディレス監督との出会いによって見出され、さらに1998年から日本代表を率いたトルシエ監督の目に留まり、国際Aマッチ38試合出場(1999-2003)の記録を残すことになる。
森岡氏本人は「3年で芽が出なかったら大学に進学する」という思いでプロ入りしたと述懐しているが、その時すでに東京六大学野球のスターだった高橋氏は、なかなかチャンスが巡ってこない旧友を常に気に掛けていたという。そして高橋氏がプロの門を叩く頃、森岡も清水でレギュラーの座をつかんでいた。