ドイツのリッベントロップ外相は、日独同盟を推進していた当時の大島浩駐独大使に対して、「ハルハ川戦争」の仲介を申し出るとともに、ゆくゆくは日本、ナチス・ドイツ、イタリアの三国同盟にソ連も加えて四国同盟に発展させたいとの構想を語ったとされる。
前提としていた国策の方針を見失った「ハルハ川戦争」を戦っていた日本軍は、停戦を余儀なくされた。当時の駐ソ連大使の東郷茂徳(現在「親露派」評論家として著名な元外交官の東郷和彦氏の祖父・ちなみに東郷和彦氏の父の東郷文彦氏も事務次官まで務めた外交官)が交渉を進め、9月15日に「双方とも現在占拠している線で停戦」での停戦合意が成立した。
すでに9月1日にドイツがポーランドに侵攻していた。ソ連は、「ハルハ川戦争」停戦合意成立の2日後の9月17日に、ポーランドに侵攻を始めた。独ソ不可侵条約締結時の秘密協定に基づいて、ポーランドは、ドイツとソ連によって分割され、消滅した。
ドイツのポーランド侵攻の2日後の9月3日に、イギリスとフランスがドイツに対して宣戦布告した時をもって、「第二次世界大戦」の開始とするのが、正しい歴史の理解として定着している。しかし実際には、「第二次世界大戦」なるものは、歴史家が作り出した一つの概念でしかない。西欧中心主義の歴史観と言ってよい。
現実の歴史は、そのように単純に進んでいるものではない。少なくとも「ハルハ川戦争」は、欧州戦線の動向と密接に結びついていた。「ハルハ川戦争」の停戦がなければ、ソ連がポーランドに侵攻できていたか、わからない。スターリンが日本との停戦を急いだのは、「独ソ不可侵条約」の果実を、欧州で獲得したかったからだ。
狼狽していた日本は、ドイツの破竹の進撃を見て、気を取り直して、翌1940年9月27日に成立する「日独伊三国条約」の枢軸国の同盟体制をあらためて確立する。ドイツの前例に従い、ソ連との間では、1941年4月13日に締結した中立条約を結んだ。