しかし1939年5月から9月にかけて、日本とソ連がそれぞれ7万人前後の兵力をもって激突し、それぞれの側で1万人前後の戦死者が出たとされる「事件」を、「戦争」と呼んではいけない理由はない。「事件」と呼び続けるのは、まずはその軍事衝突の規模を誤認させかねない。
もっとも戦争の経過の細部については、本格的な歴史検証が冷戦終焉後まで持ち越されたところもあり、いまだ明らかではないようだ。概ねソ連が優勢だったとして、それはどれくらいだったのかについては歴史論争があるようである。
しかしここでは、そうした歴史の細部については立ち入らない。形式的にはモンゴルと満州国の間の国境紛争であった「ハルハ川戦争」は、実質的にはそれぞれの後ろ盾であるソ連と日本との間の戦争であった。
大日本帝国陸軍は、ソ連成立後の「シベリア出兵」をへて、1935年勃発の「満州事変」以来、明白に「北進」路線をとっていた。ソ連は、それを自国の国境においてだけでなく、モンゴルと満州の国境線においても、押しとどめなければならない立場にあった。
当時の日本は、米英との対立を深め、ドイツと接近していた。そのためソ連の脅威に共同で対抗することを強調した。1936年に成立した日本とドイツの間の条約関係は、「日独防共協定」だった。この流れの中で、ソ連に挑戦する姿勢で陸軍は拡張政策を取り続け、遂に1939年に国境地帯で武力衝突を起こし、「ハルハ川戦争」に至った。
ところがこの「ハルハ川戦争」中に起こったのが、1939年8月23日の「独ソ不可侵条約(モロトフ=リッベントロップ協定)」である。反共ファシズムのナチス・ドイツと共産主義インターナショナル=コミンテルンのソ連が、手を結んだ衝撃は大きかった。
当時の総理大臣は平沼騏一郎だったが、「今回帰結せられたる独ソ不侵略条約に依り、欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」との声明を発出して、8月28日に内閣総辞職したことは、よく知られている。