このような理由で指揮権を発動すべきであった事案として、2010年9月に起きた尖閣列島沖での中国船の公務執行妨害事件がある。
中国船船長の釈放を決定した際の会見で、那覇地検次席検事が「最高検と協議の上」と述べた上で、「日中関係への配慮」が釈放の理由の一つであることを明らかにした。この事件での船長の釈放、そして、結果的に不起訴処分となることについて、検察が組織として外交上の判断を行ったかのように説明したのである。
しかし、検察官が訴追裁量権の行使に当たって考慮できるのは、当該刑事事件の情状や犯罪後の更生の可能性に関連する事情であり、外交上の配慮は、248条の訴追裁量権で考慮すべき事項に含まれるとは考えられない。
国の行政組織の役割分担と責任の所在という観点から考えたとき、外交問題は外務省が所管し、その責任を負うのは外務大臣であり、国として最終的には内閣総理大臣が責任を負う。検察が外交上の判断を行ったとすれば、権限を逸脱したものである。
検察が船長釈放について外交関係に配慮したかのような説明を行ったことに対して、当時の仙谷由人官房長官は「了とする」と述べ、「官邸側の意向を受けて検察が釈放を決定したのではないか」との疑いの指摘に対しても、外交関係への配慮も含めてすべて検察の責任において釈放の判断が行われたように説明した。
しかし、外交上の判断の責任は内閣にあるのであり、犯罪の成否や情状評価等の処罰の必要性の判断という刑事司法上の判断を行う権限しか有しない検察に押し付けようとするのは許されないことである。
この中国船船長釈放問題については、検察が内閣側に政治的に利用された面がある。しかし一方で、このような、法務大臣の指揮権によらなければならない典型事例において、検察官の訴追裁量権の枠内で判断するかどうかという問題に対して、検察内部で十分な議論が行われたようには思えない。
そこには「検察の正義」を絶対視し、いかなる場合においても、刑事事件の処分は検察内部で誰からの干渉も受けずに決めることに拘り、「法相指揮権」の完全否定を支持するマスコミや世の中の論調がある。その背景には、前述した造船疑獄での法務大臣の「指揮権発動」に対する誤解があるのである。
検察不祥事への対応と法相指揮権