ほぼ同時に起きていたタイ、マレーシア、インドネシア、フィリピンの通貨が大幅に下落したままにとどまり、中でも韓国の場合にはウォン安が危機的な水準まで進みました。

国際通貨基金(IMF)が韓国の金融・財政政策まで管理下に置いてなんとか韓国が国家破綻の危機を回避したのに比べれば、日本円がいかに強い通貨であり、日本経済もまたいかに強い経済だったのかわかります。

下段にも注記しておきましたが、この時期にいたるまでの日米経済交流の歴史を眺め渡すと、日本の製造業がアメリカの同業各社を押しまくっていたことに気づきます。

1960年代の繊維や鉄鋼、造船に始まって、日本企業によるアメリカ市場への進出がアメリカの巨大寡占企業の業績を傾かせるまで進み、続いて1970~80年代には家電、電子機器そして世界市場を席巻していたビッグスリーの支配下にあったアメリカの自動車市場でも日本企業各社の進出が本格化したのです。

1980年代末には、すでに80年代後半に起きていた日本の3大都市圏での地価バブルに便乗したアメリカの金融業界大手各社が一斉に日本株を買って株価バブルも惹き起こし、そして89年末から1990年初頭に売り抜けることで崩壊させたバブルだと思います。

しかし、このバブル崩壊は大都市圏での不動産投機や株に手を出していた人たちを除けば、日本国民の生活にはほとんど変化をもたらさなかったのです。1990年代半ばまでの日本のGDP成長率は、高度成長期ほど高くはなかったとはいえ、先進諸国の中では依然として高水準でした。

日本経済の成長が本格的に減速するのは、バブル崩壊の被害はほとんど不動産・金融業界にとどまっていたにもかかわらず、日本経済全体の成長が止まってしまったかのような大げさな危機感を振りまき、「インフレ率を高めて経済を活性化させよう」というアメリカをまねた不健全な経済政策を政府・日銀が取るようになってからのことでした。

政府・日銀に抗してインフレを食い止めた日本の大衆