ヨーロッパが大戦(1914-1918)中、日本が中華民国政府に突き付けた「二十一か条要求」は、日本による中国侵略の第一歩であったと現代中国では教えられているようだが、当時の日本にすれば、中国動乱と中華新政府の専制化によって、満州の日本利権が脅かされていることへの、強い不満表明であったと見たほうが、実情に近いと思われる。
事実、満州について同政府より保証がされると他の要求の大半は撤回された。しかし受難は続いた。大戦の長期化とともにロシア革命が勃発し、ロマノフ王朝は崩壊。取って代わったソヴィエト連邦政府は、日本との満州協約を一方的に破棄。また隣接するモンゴルが中華民国ではなくソ連の勢力下となった。
かつて清ロ二大王朝が協約によって保証してくれていた約束の地が、むしろ混濁していく世界新秩序の、まさに縮図となってしまったのだ。極東の列島国に、これは荷が重すぎた。詳細は後の機会に譲るが、これこそがその後の日本を、東アジアにおける悪の帝国ポジションに引きずり込むこととなった。
AIによる地政学シミュレーションここで歴史にIFをひとつ挿し込んでみよう。日露戦争で、ロシアがもし勝っていたら?
かつては清国との秘密協約だった、満州での軍事・鉄道利権をおおっぴらに収めて、同地はしばらく安定状態化する。清王朝下での、日本を手本にしての国政改革がこの世界線では起きなくて、むしろ王朝ロシアの影響で保守体制が存続し、そうなると史実における辛亥革命にあたるものは、第一次大戦「後」になった可能性が出てくる。
ヨーロッパとロシアの力関係はこの世界線でも存続するので、大戦→ロシア革命の因果は、(同世界戦では存続する)清王朝の下で、社会主義と民族主義の両方に火をつけて、同王朝の崩壊と入れ替わりにこの二つの主義が、ロシアならぬソ連に隣接する満州で入り乱れ(なにしろ清朝の祖先の地であった)、史実とは違う風に軍閥争いが内外に広がって、私たちの知る中国現代史とは違うものが、進行していったのではないか…
負の歴史だからこそ「反省」では語れない