これは当時の日本にとって、大国ロシアが南下を図っている、そして朝鮮半島を介して日本に迫ってくる脅威と受け止められた。
この頃、ロシアが英領インドまで南下する可能性をイギリスが怖れていたこと、中国進出に出遅れていたアメリカが満州に関心を寄せていたことも重なって、あの日露戦争(1904-1905)を惹起した。
ロシアが勝つであろうと予想されたこの戦争は、逆転劇となった。アメリカ・ホワイトハウスの仲裁で、日本はロシアとの講和会議にこぎつけた。和平成立後、清国とも満洲善後条約を結んだ。
その後(アメリカにとっては失望だったようだが)日ロは協約とその改訂のたびに、満州をめぐって協調路線をたどっていった。
ラストエンペラーの落日とともにところで1911年、つまり日露戦争の講和と終結より6年後、中国大陸では各省で(後にいう)辛亥革命が勃発し、やがて新政府が樹立。清王朝はこれに屈することとなった。
この影響で、日本でも政変が続いた。日本史の授業で「大正政変」として習う、あれのことだ。
当初、西園寺内閣は清王朝について、イギリスのような立憲君主制への移行を望んだものの、当のイギリスがこれに同調しなかったため、内閣はこの方針を破棄。陸軍寄りの政治家たちがこれに反発した。清王朝が消滅となったら、満州における鉄道利権を(満洲善後条約によって)日本に保証してくれていたのが、おじゃんになってしまうではないか、と。
こうして西園寺(外交官出身)は弱腰と非難され、変わって桂(陸軍出身)に内閣のバトンがわたった。陸軍人脈による横暴として民衆運動の標的になって失脚したこともあって、学校日本史では悪役として語られがちだが、組閣を見ると外務大臣は親英派、逓信大臣には新ロ派、さらに新党結成にあたって桂は、辛亥革命肯定論者を取り込んでいた。
欧米ロ協調路線を保ちつつ中国の動乱にも対処できる、新体制を探っていたのがうかがえる。もっともこの内閣は短命に終わった。そのうえ中華民国新政府は、日本を含む13か国から承認される(1913年10月)や、議会を解散させて専制化していった。