物量の絶対的不足を精神力でカバーし、B29の攻撃に「竹やり」で対抗しようとした当時の日本人の姿には虚しさ、痛ましさを感じますが、そこに特攻隊員にも似た日本人の心意気を感じるのは、精神的な戦中派を自認する私の個人的な感傷かもしれません。
その他の米本土攻撃作戦風船爆弾は、日米戦争末期の日本軍による苦肉の「奇策」でしたが、戦争の初期段階では陸海軍による米本土攻撃作戦が色々な形で行われました。
例えば、真珠湾攻撃の3か月後の1942年2月24日には、日本海軍の「伊号第17潜水艦」が、カリフォルニア州サンタバーバラの石油製油所への砲撃作戦を行ったことが記録に残っています。この攻撃は米国政府や一般市民に大きな衝撃を与えたとされています。なにせ、米本土が外国によって直接攻撃されたのは米英戦争(1812~15年)以来で、まさに前代未聞だったからです。
その後も日本海軍は潜水艦による西海岸への砲撃を累次にわたって行ったようで、米軍上層部は「大規模な日本軍の上陸は避けられない」として、日本軍を上陸後ロッキー山脈で、もしそれに失敗した場合は中西部のシカゴで阻止することを検討していたとのこと。
西海岸の一部の都市では、日本軍機による都市部への爆撃を恐れ、防空壕を作り避難訓練を実施したり、灯火管制で映画館やナイトクラブの夜間の営業停止、防毒マスクの市民への配布などを行っていたそうです。
このような日本軍の上陸に対する警戒は、太平洋戦線における戦局が米軍をはじめとする連合国軍の優勢になった1943年夏以降も続いたとのことです。
日本による原爆製造計画原子爆弾と言えば、もっぱら米国の「マンハッタン計画」やそれを指揮した物理学者オッペンハイマーが有名ですが、実は日本にも原爆製造計画があったことは今や周知の事実です。
陸軍は理化学研究所の仁科芳雄研究室に、海軍は京都帝大の荒勝文策研究室に委託していましたが、肝心のウラン鉱石が十分入手できず、原爆製造には至りませんでした。