そのほか、ワシントン州リッチランドのプルトニウム製造工場(長崎原爆を製造したハンフォード工場)の送電線に引っかかり一時的に停電を引き起こしたり(このときは予備電源により原爆の完成に大きな影響は無かった由)、ほかのいくつかの場所で停電や森林火災を起こしたりと、全米各地の軍民の施設に数十件の損害を与えたことが明らかになっています。

風船爆弾による攻撃を知ったアメリカ陸軍の一部は、風船爆弾に細菌爆弾などの生物兵器を搭載している可能性を考慮し、着地した不発弾を調査する際に担当者は防毒マスク、防護服を着用したそうです。また、少人数の日本兵や特殊工作員が風船に乗ってアメリカ国内に潜入するという懸念を終戦まで払拭することはできなかったということです。

実際に日本陸軍内部では、爆弾の代わりに兵士2~3名を搭乗させる計画も検討されていたそうですが、実現する前に終戦になったということです。

米国政府による情報隠蔽

アメリカ政府と陸軍は、自国民がパニックに陥り、戦意に悪影響が出ることや社会混乱が起こることを恐れて情報操作を行い、国内のマスコミに対して風船爆弾に関する報道を一切禁止したようです。こうしたアメリカ側の隠蔽工作によって日本側では風船爆弾の具体的な成果を知ることができず、その効果を疑問視する声が軍部内にあったとされています。

1945年夏になると米軍の本土空爆が一段と激しくなったので、登戸研究所の一部は、長野県松代(まつしろ。そこの山中には、大本営や皇居、政府首脳部などの地下施設が建設されていた)の近くへ移転し始めていましたが、終戦ですべて中止されました。当時の混乱状況が想像できます。

こうして日本が、登戸で、乏しい資材をかき集めて必死に風船爆弾を製造していたころ、米国では、原爆製造のための「マンハッタン計画」が、桁違いに莫大な予算と資源を投入し、数千人規模の一流科学者を動員して進められていたわけで、今思うと、彼我の実力のあまりにも大きな格差に愕然とします。