材料は和紙とコンニャク糊

今回見学した資料館の一室には、この風船爆弾の10分の1のレプリカが展示されています。実際に製造されたのは、直径10メートルほどの大きな風船で、その中に水素ガスを詰め、爆弾や焼夷弾を数個ぶら下げて、大気高層のジェット気流(偏西風)に乗せて、太平洋を横断し米国本土を攻撃しようとしたものです。

資料館展示の風船爆弾の模型(実物の10分の1)

風船の材料としては、和紙をコンニャク糊で何重にも張り合わせたもので、その作業には全国の女子学生が多数動員されました(ちなみに、私の郷里の近くの愛知県豊川市には当時東洋一と言われた海軍工廠があり、海軍用の機関銃、爆弾、銃砲弾などを製造していましたが、終戦直前に米空軍のB29による大爆撃を受け、工場施設は全滅、そこで働いていた工員や地元の女学生が多数死亡しました。正門の守衛として勤務していた私の父親も危うく死に損ないました)。

約千発が米本土に到着

太平洋上空をいく風船爆弾

1944年秋から45年8月までの間に登戸研究所で製造された風船爆弾は総計1万発弱。千葉県一ノ宮と茨城県大津、福島県勿来の各海岸からアメリカ本土に向けて発出されました。

そのうちの10%程度に相当する1000個近くがアメリカ本土やアラスカ、カナダに到達したとされます。

これらの風船爆弾は、2昼夜半かけて太平洋を横断しましたが、夜になると大気高層では零下50度ほどの気温になり風船の高度が下がるので、積んでいたバラストを落として、軽くして高度を上げるなどの細かな工夫が施されていたようです。

そして米国の本土上空に達すると一定の高度で爆弾や焼夷弾を投下するような仕組みになっていました。

「戦果」は死者6名

問題は、これらの風船爆弾が実際にどれだけの「戦果」を挙げたかですが、確実な情報としては、米国西海岸のオレゴン州の山中に着陸した風船爆弾の爆発により民間人6名の死者を出したことが知られています。

オレゴン州空襲を伝える朝日新聞の記事(1942年9月17日付)