検察官による事実誤認を理由とする控訴は、英米法の諸国においては「二重の危険の禁止」の法理の下に禁止され、また大陸法の諸国においても、参審制等により国民の司法参加が認められていること、控訴審の機能は誤判救済にあると位置付けられていることなどから、多くの国で禁止されている。我が国においても、憲法第39条において「同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない」と規定されているのを「二重の危険の禁止」の法理であると解する見解が有力であり、検察官による上訴は憲法違反の疑いがある。

無罪判決に対する検察官控訴に対しては、そのような憲法上の疑義があることをも考慮すれば、この袴田事件の無罪判決についての検察官への不控訴の指示は、憲法の趣旨にも沿うものとの見方も可能である。

指揮を受けた検事総長は、「再審判決の事実認定は承服しがたいものであるが、検察庁法に基づく法務大臣の指揮を受けたので、それに従う」と述べて不控訴で事件を決着させることになる。

その場合、この事件の過程で問題になった再審の在り方についての問題の指摘、検察の公判対応への批判などは、すべて法務大臣自身が受け止めて、この事件での著しい審理の長期化を招いた再審に関する法整備、無罪判決に対する検察官控訴の是非の検討などを、その責任において、今後の対応を行うということになるであろう。

長年、袴田氏の冤罪救済の活動に懸命に取り組んできた弁護団、与えられた刑訴法の権限に基づき、再審請求審、再審への対応を行ってきた検察官、そして、50年以上も過去の事件について証拠による事実認定という極めて困難な審理判断を行う裁判所、もう十分にその使命は果たしてきた。

袴田巌氏と姉のひで子氏を刑事裁判から解放し、静かな余生を送ってもらうため、ここで「ノーサイド」の笛を吹くことができるのは法務大臣しかいない。