検察官は、袴田ともが、検察官の取調べにおいて、自身の記憶と異なる供述を した覚えも、自身の説明と異なる供述調書が作成されたこともない旨証言していることや、検察官調書に署名・押印していることをもって、その供述内容の信用性が高まるかのように主張する。

しかし、供述証拠の信用性は、他の証拠による裏付けや供述状況等を総合的に評 価して判断されるものである上、検察官が指摘する袴田ともの上記証言や供述調書の署名・押印は、作成の真正、すなわち、取調べにおける供述内容と供述調書の記載内容が一致していることを推認させるにすぎず、これらによって、内容の真正、すなわち、供述内容の真実性が直ちに裏付けられるものではない。検察官の上記主張は、任意性を確保しつつその裏付け捜査等によって十分な証拠の収集・把握に努めて供述を吟味するという、捜査機関が自ら規律する取調べの在るべき姿(犯罪捜査規範168条、173条(改正前の165条、170条)、検察の理念の4項、5項参照)にも反しかねない主張であって、採用できない。

と判示している。

前記の「3つのねつ造」についての事実認定は、すべて、袴田氏の確定判決に至るまでの50年前の警察や検察官の対応に関するものであるが、上記の供述調書の信用性に関する検察官の主張に対する判示は、現在行われている再審公判での検察官の対応の問題だ。

そこでの検察官の対応が「検察の理念」に反しかねないと批判されているのは、「検察官の取調べにおいて、自身の記憶と異なる供述をした覚えも、自身の説明と異なる供述調書が作成されたこともない旨証言していること」「検察官調書に署名・押印していること」を供述内容の信用性が高まる事由として主張することである。

大阪地検特捜部の不祥事等を受けて、それまでの検察の「調書中心主義」が反省を迫られ、公判中心の立証が指向されていることは確かであり、そのような現在の刑事裁判において、上記のようなワンパターンのやり方で供述調書の信用性を主張するのは「時代錯誤」だという批判である。