それらは時の政権が国民の広範なニーズから選択的に拾い上げて、概算要求に事業項目として挿入する政策決定として現実化する。

「復活折衝」「大臣折衝」は「共同意志決定」なのか?

このような日常的体験からすると、「共同意志決定」とは何かが少し見えてくる。

概算要求後にマスコミ世論の反応、党内外の力関係、野党の対応、全国知事会や市長会の動静、内閣の基本方針などへの配慮から、「復活折衝」が各省庁と財務省間で行われる。そしてその大詰めでの大臣折衝で次年度の予算原案が決まり、与党内の合意のあとに国会で審議されて、3月末までには予算案が決定する。

財政は「社会の構成員の共同意志決定で運営されている」のか?

この予算策定に関する毎年の年中行事を傍観してきた私には、それによって策定された「財政」が社会システムの「結節点」にあるとは思えない。しかも神野論文でいうように、「社会の構成員の共同意志決定で運営されている財政」(:24)という表現にも違和感を覚える。概算要求のどこに「国民による共同意志決定」が認められるのだろうか。

このような疑問が生じる背景には、神野が「共同意志決定」についての定義を下さず、恣意的に使っていることにより、よくいえば自由な解釈が可能となってしまうという事情がある。しかしそれは学術論文にはふさわしくない。

社会の構成員としての「社会的アクター」

概算要求から一連のプロセスをへて確定した予算に裏付けされた財政部門もまた、社会システムの下位システムであり、「歴史の曲がり角のハンドルの役割」への期待は、神野が想定するほど大きくないであろう。

なぜなら、「歴史の曲がり角」ではジェンダー、世代、階層、社会運動などの多様な力関係が社会システムを動かすからである。社会システム全体に関連した社会的アクターに限定しても、図2のような簡略図が得られる。

図2 社会システムのアクター筆者作図

この図を使えば、財政もまた社会システムの国家に含まれる下位システムではあるが、それに関与するアクターは非常に限られていることが理解できる。せいぜい行政アクターとしての国家に関係する政治家と省庁の職員が「財政」の直接的アクターになるであろう。