家族について神野論文では、「新自由主義は生活保障責任を放棄させ・・・・・・(中略)新自由主義が闊歩し始めるとともに、家族や地域社会という社会システムにおける共同体的人間関係が急速に解体されていく」(:26)とされた。

このあとに、「家族や地域社会という『生活の場』における社会システムは、日本では極度に弱化してしまっている」(:27)と結論した。そのうえで総合判断として「日本の社会は社会的絆を喪失した不信社会となり、日本国民は孤独や孤立のうちに生きている」(:27)とまとめている。

「社会的絆を喪失した国民」が「共同意志決定」するためのノウハウ

神野によるこのような分析からは、信用していない政府が取りまとめる概算要求≒予算≒財政を、「社会的絆を喪失した国民」が「共同意志決定」するためのノウハウがあるのだろうかという疑問が生じてくる。しかし神野はそれには何も触れていない。

社会システムのアクターは「共同意志決定」にどのように関わるのか?

かりに図2のような社会システムアクターを想定すると、神野が強調する「共同意志決定」とはどのような構造をもつのか。

これが明らかにされない限り、最後まで何度も繰り返される「社会の構成員の共同意志決定で運営される財政」(:28)は説得力を持ちえない。

独自構想の「三つの政府体系」

おそらくその回答の手がかりが、論文末尾の「三つの政府体系」なのであろう(:28)。

「地方政府」:「生活の場」における自発的協力が基盤 「社会保障基金政府」:「生産の場」における自発的協力が基盤 「中央政府」:社会統合に最終責任を負う

ここは神野本(:202)が詳しいので、参照されることをお勧めするが、「理念型」だとしてそれ以上の説明が神野論文でもないために、その先が展望できない。

新提案の「社会保障政府」への疑問

終りに、誰でもが気づく問題だけを示しておこう。一つは中央政府からの「地方交付税」はこれまで「地方政府」としての自治体に交付されてきたが、新提案の「社会保障基金政府」にはどうなるのか。現状維持か、もしくは両政府における折半なのか。