『杳子・妻隠』新潮文庫、167-8頁 (強調は引用者)

誰もがその人に固有のヘンな偏り(癖)を持っていて、その意味で完全な健康体ではなく、「病気であって病気じゃない」状態を生きている。大事なのは、そうした中途半端さをお互いに自覚して、配慮しあうことであって、「よっしゃ、私はこのイケてる病名!」みたいな話じゃない。

古井由吉は、文学史的には「内向の世代」の象徴である(もう一人の代表者は柄谷行人)。一時は期待を集めた学生運動への幻滅が広がり、社会的に望ましい答えがはっきりしなくなった時代に、自分自身の足場の不確かさを受け入れ、根本から物事を疑って生きようとする感覚を捉えた。

そうしたセンスは、1979年にデビューする村上春樹にまで通じている。そもそも『杳子』に出会ったのも、『ノルウェイの森』ほかのヒロインとの類似性を、浜崎洋介さんに教わったのがきっかけだった。

ぼくが長いこと、ずっと「専門家」の批判を続けているのも、彼らはもう見えなくなって久しい社会的な正解が「今もはっきりしている!」と詐称するからだ。それで? コロナではどうでした? ウクライナは? パレスチナは?

もし精神医療の分野で「正解はセンモンカである医師が知っている。だからバンバン措置入院させ、身体拘束し、服薬を強制しよう」などと書いたら、大ごとだ。しかしコロナではなぜか、他の分野の専門医が実質的に同じことを煽り、そうした傾向からこの社会は抜け出せなくなっている。

「あなたはこの病名だ」と断定することもまた、一種のカテゴリー化であることに気をつけよう。それは一見、はっきりした答えに見えるけれど、人をカテゴリー分けする思考には、常に分断や排除の危険がつきまとう。

なぜ、学問を修めた「意識の高い人」がネットリンチに加わってしまうのか|Yonaha Jun
8月27日付で、筑波大学は所属する東野篤子教授のTwitter利用に関し、「コンプライアンス違反に該当するような事項は確認することができませんでした」(原文ママ)との回答を、ネットリンチによる被害を訴えていた羽藤由美氏に送付した。 知と理は死んだ 筑波大学の汚点 筑波大学のコンプライアンスは死んでいると言わ...