そのギャップを意識しないと、「この病名ならみんな抵抗感なくて、イイっしょ!」みたいなラベルに、双方が依存し殺到しちゃう――っていうのが、ここ10年間にASDやADHDをめぐって起きたことではないのかと、(これは尾久さんではなくぼくが)思う。

実は同書を読んで、すぐ脳裏に浮かんだ小説がある。古井由吉が1971年に芥川賞を受けた『杳子』(ようこ)だ。

ヒロインの名に「杳(くら)い」と入っているとおり、学生どうしの恋愛小説なのに異様に暗い。でもじっくり読むと、決してキラキラはしない代わりに、深い優しさを湛えていることがわかる。

作中で「ノイローゼ」と呼ばれる杳子は、今なら発達障害と診断されるだろう。喫茶店のデートでも、前回座ったのと「同じ席」以外はイヤだとか、もしドアを開けて当てが外れたらすべての建物のドアを試しそうで怖いとか、本人限定の異常に微細なこだわり(癖)で恋人を悩ませる。

彼女はそもそも病気で、入院した方がよいのか。家族も交えた激論の後、主人公はこう思う。杳子に、大略すれば「あなたは自分の癖を、私に押しつけないから好き」と告げられての応答である。

彼はそうではない時の自分の姿を思った。杳子のそばにいながら自分ひとりの不安に耽って、無意識のうちに同じ癖を剥き出しにして反復している獣じみた姿を……。そして彼のそばで眉をかすかに顰めてそれに耐えている杳子の心を思いやった。しかしその思いは胸の中にしまって、杳子の差し出した言葉を彼はそのまま受け取った。 「入りこんで来るでもなく、距離を取るでもなく、君の病気を抱きしめるでもなく、君を病気から引張り出すでもなく……。僕自身が、健康人としても、中途半端なところがあるからね」