このようにフランスやドイツを超えた一般的な視点からは、「福祉国家」の代わりに「社会国家」を使う必然性が見えてこない。
「社会国家」がドイツ語圏やフランス語圏に特有な用語なのかどうかは私には判断できないが、社会学の観点からもアソシエーションとしての国家の前に社会(social)を付けるのには日本では違和感が残る。
さらにいえば、日本語で「社会国家」を使う場合は、フランス語やドイツ語での「社会国家」との相違を理解して、加えてバウマンのような使い方にも配慮したうえで使用しなければ、読者へのメッセージが届きにくいと思われる。それは至難の業だから、日本語表現としては「社会国家」に拘らないほうがいいのではないか。
(「社会学理論の堅持と創造(下)」につづく) ※ 【参照文献】は「下」でまとめて掲載します
■
注1)当時から私はこの誤使用を繰り返し指摘してきたが、日本社会学会でも社会調査協会でも無反応であった(金子、2020a;2020b;2021)。
注2)特に社会的距離については、英語文献だけではなく、フランス語『社会学辞典』でも以下のような説明があることに留意しておきたい。「社会的距離は、より一般的でよく使う意味としては、多かれ少なかれ分離よりもやや大きな間隔であり、社会空間のなかで二人かもしくはそれ以上多い人々の間における地位の間隔である。それは、社会的に、民族的に、宗教的信条面でも下位文化的に見ても、異なる階級に所属する人々を指すものである」。 (Boudon,R.,et.al,eds.,2012:65-66).
注3)英語や国語の大辞典で「原意」を調べないままに、勝手な意味を込めて言葉を使う国民の姿勢に、昭和の終りまで培われてきた日本文化の劣化を感じる。
注4)国家が「暴力を蓄積しながら富を徴収する」(萱野、2023:131)のは事実ではあるが、「暴力」の観点を過度に強調するだけの「資本主義と国家」の関連分析では不十分である。たとえば「資本主義は、あらたに進出すべき領域や分野で資本蓄積をおこなうために、そのつど国家の暴力を当てにする」(同上:298)で止まると、暴力を基盤とした「強制機能」を持つ国家のもう一面である「調整機能」が見逃されてしまう(金子、2023:173-175)。