フランス語での通常の福祉や保障は、bien- être social、aide sociale、sécurité socialeなどの単語であり、そこには神(providence)が登場する余地はない。それにもかかわらず、「福祉国家」(État providence)が言語的(仏和辞典レベル)にも厳然として存在する。このフランス語における福祉、福祉国家をめぐる違和感は私にとっては強いものである。

しかしたとえば1963年に刊行された『新和仏中辞典』(白水社)では、「福祉国家」を‘pays désirant assurer le bien- être du peuple’(国民の福祉を保障しようとする国家)と端的に書かれていたことが印象に残っている。この時代ではまだ「福祉国家」(État providence)とは使いにくかったのであろう。

バウマンの「社会国家」と「福祉国家」の使い方

しかしポーランド人のバウマンになると、「社会国家」(social state)と「福祉国家」(welfare state)との峻別性が際立つ。

「社会国家は・・・・・・(中略)生産者/兵士の社会にとって死活的な利益を増進し、社会を円滑に機能させる」(バウマン、2010=2012:64)や、「今日、誤って<福祉国家>と名づけられた機構は・・・・・・適切な資源を欠くために自己の生存を確保することのできない社会のあぶれものたちに対処するだけ」(同上:67)など、ピケティを含めたフランス語文献での理解とはかなり異質の内容として表現されている。

ピケティとバウマンの異質性

とりわけ、「社会国家は自由とセキュリティを結びつけようとした」(同上:70)ことで、その構想は元来「矛盾を宿していた」(同上:70)とも指摘している。

逆に福祉国家は、「貧しく怠惰な人々に対処している行政機関」(同上:66)という扱いであり、「社会国家は近代においてコミュニティ概念を最高の形で具現化したもの」(同上:74)に照らしてみると、ピケティなどのフランス語文献とは完全な異質性が感じ取れる注10)。

「社会国家」を使う必然性が見えてこない