『平家物語』には「巴は色白く髪長く、容顔まことに優れたり。強弓精兵、一人当千の兵者(つわもの)なり」と記されています。
美人で最強というアニメのような人物だったようですね。
勢いに乗る義仲軍は徐々に京の都へと勢力を伸ばし、1183年7月にはついに京都から平家一門を追い出して、上洛(京都に上ること)に成功します。
その活躍が認められた義仲は、後白河法皇から「朝日の将軍」という称号を与えられ、人生の絶頂期を迎えました。
しかし『平家物語』の有名な出だしに「盛者必衰の理をあらはす(どんなに勢い盛んな者も必ず衰える)」とあるように、彼の栄華も長くは続きませんでした。
巴御前、最後の戦い
京都に入り、発言力を持った義仲でしたが、次期天皇の後継者問題において後白河法皇と対立します。
義仲は「平家討伐の声を挙げた以仁王の遺児こそ天皇にふさわしい」と意見しましたが、後白河法皇は「孫である安徳天皇の弟を天皇に即位させる」とこれを却下。
結局、義仲の声は届かず、1183年8月に安徳天皇の弟が「後鳥羽天皇」として即位を果たしています。
さらに後白河法皇は、京都まで共に戦ってきた義仲の仲間たちを甘言で次々と取り込み、義仲を孤立させました。
これに不信感を募らせた義仲は、後白河法皇の御所である法住寺(ほうじゅうじ)を襲撃し、「法住寺合戦」が勃発。
後白河法皇を幽閉した義仲の立場は急転直下、今後は逆賊として源氏勢に追われる身となったのです。
そして1184年1月、京都の宇治川に追い込まれた義仲たちは、最後の戦となる「宇治川の戦い」を迎えます。
義仲軍の兵力はわずかに200騎。これに対し、頼朝から派遣された源義経が率いる源氏軍の兵力はおよそ6万騎。
もはや最初から勝負の見えた戦いでした。