又『日の出る所伊勢国五十鈴川の川上に伊勢大神宮を鎮め祀り日の本の昼を守り、出雲国日御碕清江の浜に日沉宮を建て日御碕大神宮と称して日の本の夜を護らん』と天平七年乙亥の勅の一節に輝きわたる日の大神の御霊顕が仰がれる。かように日御碕は古来タ日を餞け鎮める霊域として中央より幸運恵の神として深く崇敬せられたのである。

そして、安寧天皇十三年勅命による祭祀あり、又第九代開化天皇二年勅命により島上に神殿が造宮された(出雲国風土記に見える百枝しぎ社なり)が、村上天皇天暦二年前記の如く現社地に御遷座せられ、後「神の宮」と共に日御碕大神宮と称せられる。

この由緒を見る限り、平安時代に村上天皇の勅命により、経島の日沉宮に鎮座していた天照大神を日御碕神社の日沉宮に遷座したことになっていますが、それは表向きで、実際には天照大神を日御碕神社の日沉宮に勧請した(分霊を祀った)というのが真実であると私は考えます。実際、現在に至っても経島に鳥居が残っていて、神事が行われているからです。

全く公表も指摘もされていませんが、日御碕神社の日沉宮の中心軸は、経島の日沉宮に正確に向いていて、その方位は立秋の日没方位です。

つまり、日御碕神社の日沉宮は、天照大神を容易に参拝できる施設であると同時に、経島の日沉宮を正面から厳密に遥拝できる施設なのです。

日御碕神社では、立秋前日の節分(8月7日)の夕方に神幸祭(神が神輿で移動する一般的な神事)と称して、日御碕神社の日沉宮に鎮座している天照大神の御神体を神輿で経島の対岸の御旅所まで移します。実はこの御旅所も経島の日沉宮と日御碕神社の日沉宮を結ぶ線上にあります。

この日、この御旅所からは経島の日沉宮に沈む太陽が観測できるはずです。日御碕神社はこの事実をなぜか公表しませんが、明らかに認識しているはずです。なぜなら、日御碕神社の宮司を現在に至るまで代々努めてきたのは、紛れもない日置部の子孫である小野氏であるからです(参照)。