信仰上、天照大神は、毎年この日に経島(別名「日置島」)の日沉宮という壮大な磐座に降臨し、小野氏の祭祀を受け続けているのです。
伊勢神宮が日本の昼を守り、日沉宮が日本の夜を護るという天平7年乙亥の勅は、聖武天皇が出したはずですが、実はこの年に日本全国で天然痘が大流行していました。聖武天皇は、崇神天皇と同様、神頼みをしたものと考えられます。
結語今回の前後編の記事で紹介した内容は、日本の権力者が時代を変遷しながらも継続した本格的な太陽信仰の始まりであると考えます。重要なポイントは、夏至/冬至のみならず、立春/立秋の日出日没の方位への信仰がこの時代に卓越していたことです。
このようないわゆる【レイライン】は、時空を超えて存在しますが、残念ながら、日本の歴史学において、レイラインの存在は、馬鹿げたものであると一蹴されるのか、ほとんど議論されません。もちろん「逆五芒星」などといった論理に適わないレイラインが陰謀論者を中心に取沙汰されている現状は残念といえます。
しかしながら、太陽を国家の象徴とし、文字の存在しない時代から太陽信仰と祖霊信仰を併せた特徴的な宗教スタイルを持つ日本において、重要施設や宗教インフラの幾何学的な構造やレイアウトが特定の太陽の方位と一致している状況を軽視するのは、学術的な態度とは言えません。
ちなみに前方後円墳の分布が大阪平野に移ると、日出日没方位との関係が90度回転します。文献が存在しない時代に土器の違いから為政者を推定するのも重要ですが、歴然とマクロに残された宗教的メッセージの違いを論拠に為政者を推定することも重要であると考えます。アブダクションを展開し、蓋然性を持って真実を追究する歴史学は、論理的に「~ではあるまいか」のフレームワークを超えることはできないのです。
また別の機会に、異なる時代の異なる場所を対象に、客観的事実を基にして、同種の記事を書きたいと思う所存です。