これらはあくまで人間が任意に設置した祭祀施設であり、後世に天皇を神格化する目的で神聖なラインに沿ってストーリー付けが行われた可能性があります。

例えば、石上布都魂神社が位置する赤磐市は古代からの桃の産地であることが考古学的に判明しており、イザナギが追手に桃を投げつけたとする古事はここから生まれた可能性があります。花窟神社には、流紋岩質凝灰岩で構成されるマッシヴな巨岩が露出しており、まさに黄泉国の入り口に蓋をする千引岩の様相を呈しています。

もちろん記紀神話はフィクションであり、このようなストーリーを誰が描いたかですが、私は、6世紀に欽明天皇に出雲に派遣されて西谷墳墓群に隣接した神門郡日置郷に居住した日置部(日置氏=ヘキ・ヒオキ)の存在が極めて怪しいと考えています。

日置部は、日奉部(日祀部=ヒマツリ)とともに、古代天皇を太陽祭祀によって権威づけた【部民】(王への従者)とされており、実際に伊勢や九州南部など日本各地でその活動形跡が伺えます。日置部の存在の初出は垂仁紀ですが、この記事の出雲-三輪山ラインの形成に関与した可能性や、前方後円墳の座取り、日本全国にわたる官幣大社設置のグランドデザインに関与した可能性も十分に考えられます。

記紀において、出雲大社の創建は天孫降臨前、伊勢神宮の創建は垂仁天皇の時代とされますが、実際には飛鳥時代に創建された可能性が高いとされています。何らかの作家が必ず存在したはずです。

なお、日御碕神社・出雲大社・西谷墳墓群は、出雲の神門郡に位置します。この神門郡の「神門」とはこの地を治めていた豪族の神門氏(=カンド)の固有名詞ですが、大和から見ると北西方位の【神門】にあたります。これは偶然のダブルミーニングと考えられます。

日御碕神社・日沉宮の創建

日御碕神社御由緒略記に日沉宮(ひしずみのみや)の由緒について次のような記述があります。

日沉の宮は、神代以来現社地に程近い海岸(清江の浜)の経島(文島又日置島ともいう)に御鎮座になっていたが、村上天皇の天暦二年(約一千年前)に勅命によって現社地に御遷座致されたのである。経島に御鎮座の由来を尋ねるに、神代の昔素盞鳴尊の御子神天葺根命(又天冬衣命と申す)清江の浜に出ましし時、島上の百枝の松に瑞光輝き『吾はこれ日ノ神なり。此処に鎮りて天下の人民を恵まん、汝速に吾を祀れ。』と天照大御神の御神託あり。命即ち悦び畏みて直ちに島上に大御神を斎き祀り給うたと伝う。