彼らが礼拝したのは、彼らの祖神であるはずの天津神(高天原の神々)ではなく、あくまで出雲の国津神(地上の神々)である大物主神なのです。

特に興味深いのは、纏向古墳群で最も古い纏向石塚古墳が、厳密に立秋の日没方位に位置する出雲に向かって遥拝する幾何学的構造になっていることです。

前方後円墳は、後円部に安置された埋葬者を前方部から礼拝する宗教インフラです。論理的に言えば、纏向石塚古墳は、①纏向の初代の王と思われる人物、②熊野大社に鎮座する素戔嗚尊、③猪目洞窟に安置された出雲王家の祖霊(伊弉諾尊のモデル)、そして④立秋に日没する太陽を同時に遥拝できる施設なのです。ちなみにこの遥拝の方位は、はからずも考古学の専門家が纏向石塚古墳の発掘調査時に古墳の主軸として設定したメインのトレンチの方位とも完全に一致しています。

その後、纏向では引き続き東田字大塚古墳(3世紀前半)・ホケノ古墳(3世紀中期)が築造され、満を持して古墳時代の幕開けを告げる大型の前方後円墳である箸墓古墳(3世紀後半)が築造されるに至ります。ちなみにこれらの古墳の長軸は、ホケノ山古墳の北西方位を除けば、いずれも特定の季節の日出日没の方位と一致します。

以上の客観的事実から、纏向王朝には、信仰対象を特定の日出日没方位と一致させた古代出雲王朝と同様のハイブリッドな太陽・祖霊信仰が存在していたことが伺えます。ちなみに、この纏向を邪馬台国、箸墓古墳を卑弥呼(日御子=ヒミコ)の墓に比定する議論が展開されているのは周知の事実です。

また、記紀の記述を素直に当てはめると、箸墓古墳に埋葬されている人物は、実在の可能性がある最初の天皇である崇神天皇(ハツクニシラス)の記事に登場する倭迹迹日百襲姫命(=ヤマトトトヒモモソヒメ)ということになります。日本書紀に次のように要約されるエピソードがあります。

三輪山の麓に都をおいた崇神天皇の時代には疫病と凶作が蔓延していました。崇神天皇は、天照大神(=アマテラス)と倭大国魂神を宮中に祀りましたが、神威が強かったことから、宮中外に祀ることにしました。このうち天照大神が祀られたのが檜原神社(日原神社=ひばら)です。