(『日本書紀』講談社学術文庫)。

素戔嗚尊の子孫で国造りをした大国主命が、出雲を去った少彦名命(=スクナビコナ)の代わりとなる国を治める新たなパートナーを探していた時、海から大国主命自身の魂(愛と知性をもたらす幸魂と奇魂)が現れ、自分を大和の三輪山に祀るよう要求し、大国主命はこれに応じました。この神が三輪山に鎮座するとされる大物主神(=オオモノヌシ)です。あまりにも唐突な話の展開ですが、これには深い宗教的な意味があると考えます。

というのも大物主神の磐座となった三輪山は、猪目洞窟から熊野大社(磐座)を結んだ延長線上にあるからです。つまり、猪目洞窟および熊野大社から見て三輪山は立春の日出方位に位置しているのです。

特に重要なのは、この線上には古墳時代の到来直前に大和に突然現れた都市である纏向遺跡などが位置していることです。また、伊弉冉命(=イザナミ)の墓所と言われる比婆山、太古に大己貴命(大国主命)を祀っていたとされる中山神社(美作国一之宮)、生駒山系の麓に位置する龍田大社(官幣大社)などが位置しています。

出雲と大和の祭祀方法の同一性

さらに、三輪山周辺を詳しく見ると、当時の重要インフラが次のように配置されています。

まず、宮殿と考えられる建物跡が発掘された纏向遺跡、【前方後円墳】のプロトタイプとされる纏向石塚古墳(3世紀初頭)・纏向矢塚古墳(3世紀前半)・纏向勝山古墳(3世紀前半)ですが、これらは三輪山頂から立春の太陽が昇る光景を遥拝できる場所に位置します。

つまり、立春にこれらの地点からは、「ダイヤモンド富士」ならぬ「ダイヤモンド三輪山」を観測できるのです。このことは、特定の季節の日出日没方位と信仰対象を一致させて遥拝する出雲のスタイルと一致します。

以上のような客観的事実から、あくまでも一つの仮説ですが、太陽信仰と祖先信仰を併せもつ出雲の王族の一部が、出雲から見て特別な位置に存在する三輪山の周辺に移り住み、それが大和の大王家に発展した可能性が考えられます。