「独立と自由より貴重なものはない」

フランス、アメリカ、そして南ベトナムという敵を相手に長年の闘争を指導したベトナム共産党のホー・チ・ミン主席の言葉だった。いわばベトナム民族独立闘争の聖なる金言である。そこには「平和」という言葉はなかった。当時の私にとって衝撃だった。

むごたらしい戦争がやっと終わって、平和が到来しても、その平和を礼賛する言葉はないのだ。それよりもベトナム民族にとって貴重なのは民族として、国家としての独立と自由だというのである。独立や自由のためには平和も犠牲にして戦争をする、という意味だった。

人間には平和を犠牲にしても戦って守らねばならない価値や状態があるという基本思考である。単に平和であっても、その平和の内容が問題なのだ、ということだった。

アメリカの歴代政権も国家安全保障の究極の目標として「自由を伴う平和」という政策標語を掲げてきた。その目指すところは、単に戦争がない、というだけではなく、そこに国家や国民にとっての自由がなければ意味がない、という思想である。外国の独裁政権の支配下に入りそうな危機となれば、断固として平和を捨てて、戦うという決意の表明でもある。

オバマ大統領もノーベル平和賞の受賞演説で「平和とは単に軍事衝突がない状態ではなく、個人の固有の権利と尊厳に基づかねばならない」と述べていた。アメリカにとって、あるいは同種の自由民主主義の主権国家にとって、その拠って立つ基本的な価値観が脅かされるときには、平和の状態を破って、その国家の本来のあり方を守るために戦う、という意味だった。だからオバマ氏は「正義の戦争」という言葉をも使っていた。その前提には「自衛の戦争」という自明の概念があった。

「8月の平和論」は平和をどう守るかについても、語ることがない。戦争をどう防ぐか、という課題にも触れないのがその特徴である。

平和を守るために絶対に確実な方法が一つある。外部からの軍事力の威嚇や攻撃に対してまったく抵抗せず、すぐ降伏することである。相手の要求に従えば、単に戦争がないという意味の平和は確実に保たれる。尖閣諸島も中国に提供すれば、戦争の危険は去るわけである。だがそれでは主権国家が成り立たない。国家の解体にさえつながる。「奴隷の平和」ともなる。