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顧問・麗澤大学特別教授 古森 義久

この時期の日本では「平和」という言葉が幅広く強調される。8月の原爆被災、そして終戦という記念日を迎えての国民的追悼ともいえる慣行である。平和の貴重さ、戦争のむごたらしさを改めて想起し、戦死者への弔意を表するという意味では、国民すべてが真摯に向き合うべき追悼の行事だともいえよう。

だがこの「8月の平和論」は日本の国家安全保障への意味という点では重大な欠陥がある。危険でもある。私は昨年のちょうどこの時期、本コラム欄でその点を「『8月の平和論』の危険性」と題する論文で指摘した。それから1年、日本をめぐる安全保障状況は格段と厳しくなった。日本の安全のためという意味での平和論の欠陥を再度、提起したい。

8月のこの時期、日本各地では「平和が絶対に大切です」、そして「戦争は絶対にいけません」というスローガンが繰り返し叫ばれる。だが問題はその平和とは何なのか、その平和はどう守るのか、そして戦争をすべて否定すれば、わが日本国を守るための自衛や抑止までも放棄することにならないのか、という諸点である。

率直に述べれば、すべての戦争を否定する「8月の平和論」は日本がたとえ攻撃され、侵略されても戦わないというのだから、実際には無抵抗論、降伏論である。「平和」というなお定義の難しい概念のために、わが国家、わが郷土を防衛することも最初から放棄してしまう。そんな日本でよいのだろうか。世界の他のどの国も自国を守るための軍事的な能力や意思は明確に保っている。その姿勢こそが他国からの軍事攻勢を抑止し、平和を保持できる、という思考なのだ。

意地悪く述べるならば、日本の国内で日本人が集まり、ただ心のうえで、言葉のうえで、「平和」と叫び続けても、日本国の平和は実際に守られるのか、という疑問がそこにある。そもそも平和とは日本と外部世界との関係の状態であり、日本国内の状態ではないからだ。日本がいくら平和を求めても、それを崩すのは日本の外の勢力なのである。