実例を挙げよう。中国は日本固有の領土の尖閣諸島を自国領だと主張する。武装艦艇を連日のように尖閣周辺の日本領海や接続水域に送り込んでくる。もし中国人民解放軍が武力で尖閣諸島を占拠すれば、どうなるか。「8月の平和論」ではその侵略を防ぐために日本は戦ってはならないのだ。その結果は外国勢力による日本領土の侵略、そして占拠となる。一切、戦ってはならないとなれば、侵略国家側の意思に従うことになる。つまり無条件の降伏、そして自国領土の明け渡しである。
「8月の平和論」は平和の内容を問題にすることがない。平和の質への言及が皆無なのだ。
平和とは言葉通りの意味では「戦争のない状態」を指す。だがどの国家にとっても、どの国民にとっても、存続していくうえで単に戦争さえなければ、すべてよしということはあり得ない。
たとえ日本が他国に完全に支配されていても、戦争さえなければ、平和である。だがそんな平和は「奴隷の平和」といえよう。戦争はなくても民主主義も人権も抑えられていれば「弾圧の平和」だろう。国内の貧富や階級の差が非人道的なほどに激しく存在すれば、「搾取や差別の平和」となる。それでもよいはずがない。
そんな場合にはその苦境を変えねばならない。その変革のためにはたとえ平和を一時的に犠牲にしても戦わねばならない。こうした考え方はこの世界では現在でも、歴史的にも大多数の国家、国民、民族に共通してきた。日本の「8月の平和論」はその世界の実態に背を向けるといえる。
この点での私自身のベトナム戦争での体験は強烈だった。
1975年4月、当時の革命勢力の北ベトナムはソ連と中国の巨大な支援を得て、大勝利を果たした。アメリカから支援されてきた南ベトナム政府を完全に軍事粉砕したのだ。北ベトナム側にとってはフランス植民地軍への闘争から始まって、30年ぶりもの全面的な勝利、自立、そして平和の実現だった。
その歴史的な大勝利を祝う祝賀大会がサイゴン市の中心の旧大統領官邸広場で開かれた。私も出かけていった。旧官邸の建物の前面に大きな横断幕が掲げられていた。次の標語が記されていた。