- アサクリシャドウズが炎上した理由の本質は?
結局、以下のゴーストオブツシマの時の記事でも書いたように、「文化盗用」かどうかは「力関係」によるんですね。
キム・カーダシアンというセレブが自分の補正下着ブランドを「KIMONO」って名前で売り出した時は大問題になったけど、ボストン美術館が着物展をやる時に来場者に着付けをやったのは「文化盗用では?」と批判になったけど日本人は「どうぞどうぞ」と思ってたとか。上記記事では色んな例を出して解説してます。
で、上記記事で書いた「文化盗用」のジャッジはこうあるべきという部分を引用すると、以下の三箇条ということになるのかなと。
1・「文化盗用批判」的な緊張感があることは良いこと(他文化のテキトーな参照に慎重になるため) 2・しかし「本当に凄いもの」を作れば、文化盗用批判のような人工的な理屈は吹き飛んでいく 3・だからこそ、「形式的な理屈での批判」が暴走して表現の自由が失われないようにしなくてはいけない
・・・要するに、
「どちらかだけ」が「絶対的な権力」を持てないような拮抗関係をいかに維持できるかどうかが大事
なわけですね。
この原則どおりいうなら、アサクリシャドウズもとりあえず作ってみりゃいいんじゃないの?という感じではあります。
作ってみたら、「ゴーストオブツシマ」みたいに「日本人からしても文句のつけようがない!」ってなるのか、「おいおい、畳の形が違うじゃねえかよお」とか延々言われちゃう作品になるのか。
作るのも自由だし、批判するのも自由というのが大事ですね。
今年の11月発売らしいし、自分はやはりこういうのは「実際やってみる」までは適当な断罪はしないでおこうと思うタイプとしてありますね。
さっきの「サイレント修正」されちゃった制作者の発言も、そこまで悪い意味ではなさそうというか、SHOGUNが「三浦按針の眼」で語られることで、日本社会の色んな風習を外部の人間が理解することができる「語り手」になれるっていう意味と同じことを言いたかったんではあったと思うんですよね。
そもそも現代日本人が「SHOGUN」や「ゴーストオブツシマ」の世界を見ていても、実際の自分の生活体験として「誉のために死ぬ」とかいう世界観が直接わかるようでわからん、みたいな感じではあると思うので、「外部人の眼で見直していく」というプロセスは日本人にとっても意味が皆無ではないはずですよね。
ただこの問題がセンシティブなのは、「日本人女性の忍者キャラ」はいるけど、「日本人男性のサムライキャラを排除」してしまった構造自体が、なんというのかすごい「文化盗用問題において最も重要な力関係の要素」をピンポイントで踏み抜いて問題化している面はあると思います。
要するに「アジア人女性」がハリウッド映画で「良い役」を得ることってすごい沢山あるけど、「アジア人男性」がちゃんと「かっこいい役」を得られることってすごい少ないという「まさに”文化盗用問題の根幹”」の部分がここにはあるわけですよね。
で、それを「黒人にしちゃう」っていうのは、なんか白人がネイティブアメリカンの衣装を利用してカッコつけるシーンと何が違うんだ?っていう話ではあるはず。
だから、単純に「おいこらふざけんな」っていう感情をぶつけていくことも大事なことだと思います。それは別に黒人に対する人種差別とかそういう話しじゃないはずなので。
玉石混交に、「玉」も「石」も作られながら、あるものは褒められ、あるものは徹底的に批判されながら、徐々に理解が深まっていくものだと思いますしね。
個人的には「アサクリヴァルハラ」が本当にすごく良いゲームだったと自分は感じているので、「アサクリシャドウズ」も一応は期待して11月には買ってみると思います。
■
長い記事をここまで読んでいただいてありがとうございます。
今日アップする3つの記事はかなり相互に連動していて、「海外における日本時代劇のにわかなブーム」と、「イスラエル情勢において日本がしょっちゅう言及されることに関する日本人の使命」とは、表裏一体に作用しながらこれからの日本人のやるべきことを表していると思います。
ここまで「日本という国にまつわる特異な経緯」が重要な意味を持つ局面ってそうそうないと思うので、その「役割」をちゃんと果たせるような世界観を共有し、覚悟を決めていく道が見えてくるといいですね。
それが我々の「宿命」として見えてくるように・・・
■
ここ以後は、「SHOGUN」に出てくる日本人女性の「すごい色香」みたいな魅力と、最近の日本における「萌え絵論争」みたいな話について考察したいと思っています。
SHOGUNに出てくる日本人女性って、英語話してるアンナサワイさん以外もものすごい魅力的だと思うんですが、そこにある「覚悟」のあり方みたいな世界観と、その「女性側の意思」と現代社会の構造とのミスマッチをどう考えるべきなのか、みたいな部分から考えることで、日本における「萌え絵問題」みたいな話の新しい着地点も見えてくるんじゃないかと私は考えています。
■
つづきはnoteにて(倉本圭造のひとりごとマガジン)。
編集部より:この記事は経営コンサルタント・経済思想家の倉本圭造氏のnote 2024年5月31日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は倉本圭造氏のnoteをご覧ください。