1. 「アバター」シリーズが世界で最も売れてる映画である事情の背後にあるもの

    この記事↓で昔書いたんですが、全世界の全時代の映画興行収入ランキングの一位がアバターで、3位がアバター2なんですよ。

人類さんアバター好きすぎ!って感じですが、アバターってそんなすごい映画か?って日本人は結構首をかしげちゃうとこありますよね。

アバターの世界観って、

「欧米的世界観に毒された私達にはわからない、高潔な精神と自然との調和に溢れた部族社会の論理に仲間入りして自分への疑念にまみれずに生きていきたい」

…みたいな欲求をそのままダダ漏れに表現した感じなんですよね。

当時の上記記事から引用するとこういう感じの問題があるわけですね。↓

全体的に言えば、

現代文明的な世界観の傲慢さvs.未開の部族社会が持つ叡智 …みたいなテーマではあるんですよね。

でもこれなんか、物事の見方が図式的すぎて、もうなんだか「善」と「悪」のハンコみたいなのがあって、「はいこいつは善ね!」「はいこいつは悪ね!」みたいな感じでポンポン押して区分けしたような感じ(笑)

部族社会の人達が”神事”的な感覚で野生動物の狩りを行うのは英雄的・善的行為として100%称揚されるけど、一方で現代文明的世界観の中で捕鯨みたいな事をするのは「100%悪」みたいな。

もうパッキリとその間が全然ない形で無自覚に「善悪判断」がされてるのが、なんか凄い恥ずかしくなるというか。

あと、「部族社会の規範」みたいなものが凄い素晴らしいものとして描写されていて、

山にいられなくなった主人公たちが海の部族に「客人」として迎えられたなら、その「部族」の掟や積み重ねられた知識経験に敬意を払って、時々ちょっとイジメっぽいぶつかりあいも経験しながらお互いを理解していくのが美しい人間社会の営みなのだ

…みたいな展開も、「欧米文明の内側」だけで生きているひとが、外部の自分と全く関係ない世界としての「部族社会的なもの」に夢見すぎなんじゃないの?と思うところはある(笑)

ただ、

「社会にあとから入ってきた新人のあらゆる小さな不満」に対しても「社会全体で最優先に対処しなくてはならない」…みたいな昨今の先鋭化したポリコレ規範 …に人々が疲れてきていた情勢の中では、

ここまで「部族社会的規範バンザイ」みたいな描かれかたをするのはそれはそれでレアなことで、歴代興行ランキングで全世界的なヒットに繋がっている源泉でもある …かもしれません。

この「アバター」の場合は単に架空の異星人の世界を描いているので単純化すればするほどよいみたいな感じでしたが、SHOGUNやゴーストオブツシマの場合は、「日本という実在の歴史的集団」をベースにそれが作られているので、「一応その先」の展開もある感じなんですよね。

単に「部族社会礼賛」で終わるんじゃなくて「部族社会」と「現代的価値観」との間のコミュニケーションの中で、お互いに理解を深め合っていって…という展開を描くことができる。

「欧米人の目線」代表としての三浦按針の視点からいろいろな風習が描かれることで、「これはバカバカしい」と思う部分はそういうし、また「バカバカしいと思っていたけどその価値観に敬意を覚える気持ちになった」という展開もある。逆に欧米人の視点を日本人の集団側が取り入れるということもある。

いわゆる

・「社会問題を個人の側からだけ見る」 ・「ちょっとしたミスマッチ」は全部「社会が悪い」ってことにする

…という世界観が行くところまで行った先で、「そういう話ばっかしてても社会良くならんよね」という感じになってきて、そういう価値観が見失っていた

・社会の側から個人を見て、それに対して”宿命”を感じるという価値観 ・「社会が悪い」で終わらせずに、「自分自身の心身の選択」を見せつけることで社会を変えようとしていく相互コミュニケーションのあり方

…という、「部族社会側の持っていた規範」を再構築しようとする流れがあるんだと思うんですね。

そしてその時に「良いネタ」として成立するのが日本の時代劇なのだ、という感じですね。

これは日本人から見ても、「いやいや現代日本人はこんな感じじゃないから」とか思いつつ(笑)、でも「確かに自分の価値観はそうなってる部分もあるよな」と思える体験になってると思います。

僕はSHOGUNを見てから延々と「宿命」という考え方についてすごい自分の場合を考えちゃったりしました(笑)

  1. 「リアル日本在住外人感」のある描写(笑)

    SHOGUNはだいたい日本人はみんな日本語を話していて、三浦按針といくつかのキリシタン日本人だけが「ポルトガル語ができる」という設定で映画の中では英語を話してるんですが・・・

    なんか、「実際の在日外国人マジでこんな感じだよな」っていうシーンが沢山あって結構くすっとするとこ多いです。

    納豆食べれるかどうか、みたいな話とか、あと「いいえ!but…I」みたいなカタコト日本語のチャンポンで話す感じとか、めっちゃ「日本にいる外国人あるある」というネタを意識的に取り入れてると思う。

    こうやって「欧米文明の外側にある異質代表」としての日本・・・という筋立てでいろいろなストーリーが語られること自体は、まさに「人類社会が真っ二つに分断されていく」時代における日本人のこれからの特別な使命を示唆していると思います。

    さっきのアバター2に関する記事でも書いたように、日本は「個人主義」度で言ったら欧米と変わらないぐらい「集団嫌い」みたいな心理テストが出るぐらいには欧米化していると同時に、欧米から見た「異質な外部性」の代表的存在でもあるわけですよね。

    それを生身のレベルで両取りに構築していって、いかに「欧米的理想」と「ローカル社会」をつなぐ視座を提供できる存在になっていけるかどうか。

    これは一個後の「戦後日本統治がうまく行ったのは原爆でなく文化人類学」っていう記事そのものに続いていくわけですが・・・

    敗戦日本の戦後統治がうまく行ったのは原爆でなく文化人類学のおかげという話|倉本圭造
    イスラエルのパレスチナに対する戦争(というか虐殺というか)について、色んなイスラエル寄りの立場を取る欧米人が、「日本の場合」を引き合いに出してるのを時々耳にするようになりました。