合理的な利子

借入された、Dは資本として機能する。D⇒D ′ だ。′ は利潤で利子はその一部として支払われる。不等式を使って示せば0<r<p(rは利子率、pは利潤率)。ここでの要点は不等式にイコールがつかないことだ。利子は利潤より小さく、ゼロにはならない。もし利潤より大きければ借入の意味はなく、ゼロだったら貸す意味がない。利子はある範囲の中に納まっている。

第一の機能では利子の範囲は決まらない。というのは短期信用という範疇の中に緊急の支払のための借金も入ってくるからである。短期金融では第一の形態に加えて、様々な形態があるため、利子の合理的範囲がない。つまり高利が出現する。冒頭で述べたように、金貸しの歴史は1000年を超えるのに、近代的銀行業の歴史はせいぜい200年である。この間の期間は高利の時代であった。

お金が発生すれば、その貯蓄があり(蓄蔵は貨幣の基本的機能だから)高利貸しという商売が成立する。それは多くの社会的害悪をもたらした。近代的銀行業はそれを打倒するものとして出現した。近代的銀行業が先進的な明るいイメージをもつのは、このためでもある。第二の機能・資本の貸付によって利子の合理的範囲が定まると、これが第一の機能・貨幣の貸付にも適用され、結果として高利は排除される。

パワーの力学方程式

最初のGを大きくするための貸付、これを第一の形態と区別して“資本の貸付”と呼ぶ。それは回転する物体の重量を増すことになる。力学で言えば質量mの増大である。これに対して、W ′-G ′ でみられる第一の貸付の機能はスピード・アップ、つまり加速である。力学の第一方程式はF = mV ′ (Fはパワー、mの質量、V ′ は加速度)だ。

例え話。雪ダルマを大きくするには、芯を大きくする(質量m)、そして雪の斜面を早く転がすことである。

まとめ

資本主義の下での、すなわち近代的銀行業の貸付は二種類。ひとつは貨幣の貸付で、それは資本という運動体の速度をあげる。もうひとつは資本の貸付で資本の質量を増大する。第一の形態だけでも利潤の増大に貢献するが、第二の形態と併用すればm×V ′ でパワーは更に増大する。

歴史は銀行が第一の形態から始まって徐々に第二の形態を展開するようになったことを示している。もっとも機能分化はあった。主に第一の機能を持つ銀行(イギリスの商業銀行)と第二の機能を主とする(アメリカの投資銀行)銀行が併存している状況が多かった。ドイツなどは、両機能が銀行の発生時から一緒になっており、その分、銀行が早くから証券業務と一体化し特殊な発展経路を辿った。

借りる側の企業にしてみれば、銀行の機能を使わずには競争戦に勝てない。銀行は企業にとって主要な武器になった。

証券市場

後の論述との関係で、ここで証券市場に触れておく。

証券市場の主要な機能は資本集中による資本質量(m)の増大である。だから銀行の第二の機能が、これと結合するのは必然だった。

結合を引き起こしたのは固定資本の巨大化である。固定資本は多くの資本の回転を経て償却される。それはかなり長期になるので、預金という他人資本を貸付けるのを基本とする銀行には手に負えない。もちろん、銀行の自己資本が豊富であれば、それで対応することは可能だが、重化学工業による固定資本の拡大に追いつかない。そこで諸資本の結合装置として証券市場が登場する。

遅れて出現した資本主義国であるドイツの諸銀行は諸資本のmの増大を急がねばならず、証券市場の機能を内部化していった。いわゆる、アルフィナンツ・兼業銀行だ。

貨幣は残る

未来を想定しようとするとき、いくつかの“残るもの”を把握するのが肝心である。資本主義のままであろうと、あるいはそうでない社会を構想しようと“貨幣は残る”。人類はこれ以上のモノを発明しえないと思う。

とすれば、貨幣がいかなる形態をとろうとも(金貨、紙幣、電子マネー)、それには蓄蔵機能が内在しているから、あるところにはその余剰が、あるところにはその不足が生じる。効率利用というのは時代を超えた合理性を持つから、余剰と不足を埋めるための機能は存在しなければならない。

もうひとつ残るもの。それは人類がいつの時代にも生産を続けるということだ。銀行の第一、第二の機能は生産機能(資本主義ではそれを主に資本が担う)のために働くのだから、これが不要になることはない。だから、貨幣が残ることを前提に、銀行(金融といってもよい)の機能も残る。貨幣は残る。銀行の機能も必要なものとして残るとすれば、銀行に未来はあるのだ。

では、何が銀行の危機を、特に地方銀行のそれを招いているのか。もう少し、理論と抽象の世界を進むことにしよう(次号につづく)。