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本シリーズの④では地方銀行のPBRを対象にした。状況は深刻でかつ打開策が内生的に示されていない。思考停止などと揶揄されている。何が危機の本質なのか?

(前回:衰弱する資本主義④:地方銀行の超低PBR)

地方銀行は金融界、銀行業界の主要な部分である。地方銀行の抱える諸問題は、地方銀行独自のものもあるが、銀行業界に共通のものもある。

本稿では、今後の方向という政策的問題意識を持ちつつ、銀行業全体の問題点を探ってみよう。読者をしばらく、理論・抽象の世界に誘うことになる。

金貸し業

銀行の商売とは、なに?と聞かれて、最も単純な答えは“金(カネ)貸し”である。金貸しの歴史は古い。それは、貨幣が発生し蓄蔵の機能が認識された時に既に発生している。「ベニスの商人」の舞台は中世だ。日本でも井原西鶴の描いた借金取りに追われる数々の物語りは江戸時代だし、古代メソポタミアで利子付きの融資が行われていたという。鎌倉・室町時代には業としての金貸しがあったようだ。

本稿で扱うのは、以上のような古代からある金貸しではなく、近代的銀行業である。なにが違うのか?それは自立性と永続性である。

金貸しは社会の寄生虫である。それは宿主とともに生きている。自分では何も生み出さず、宿主の生み出したものを横取りするだけだから、元来、自立性は認められない。

寄生虫も寄生植物もすべてそうだが、宿主が死んでしまえば彼らも生きられない。どれだけ生存できるかは宿主の生命力にかかっているが、ここに矛盾がある。寄生して多くの養分を横取りしてしまえば、自らは繁栄するが宿主は弱り、やがて死ぬ。二律背反があり、存在の永続性がないのである。“生かさず殺さず”という言葉があるが、それは自然界ならともかく社会ではとても難しい。

では、金貸しの自立性と永続性はいかにして獲得されるか。

それは“資本”に寄り添う場合にだけ見い出される。

資本と銀行

資本とは運動体である。そして、それは増殖し、永続性を持っている。自然人と違って法人は死なない。企業(資本の具体的な存在形態)が、こぞって創業100年とか50年を誇るのは、背後にそんな認識があるからだろう。社長に、あなたの企業はあと何年生きられるかと聞くのは、ナンセンスである。

金貸しが資本という運動態を事業の対象としてとらえたとき、近代的銀行業が生まれる。

現代の銀行業をみると、顧客は企業だけでなく個人も公共体もある。歴史的には、高利貸しの顧客は主に個人だし、銀行の前身の多くは、ロスチャイルドのように国家を顧客にしていた。それらは、いわば近代的銀行の原始的蓄積である。しかし、ひとたび“資本”をとらえて近代的銀行業になれば、個人や国家公共体は副次的な、補完的な顧客となる(現代のように、資本を対象とした銀行業が首尾よくいかなくなると、補完的だったものが再び耀いてくる)。

では、資本を顧客とした際の銀行の機能とは何か。モデル・範式を使って、やや抽象的になるが考えてみよう。